蛟眠る

第十二話


正しくはここは伊達の領内ではない、と黒脛巾組の頭目が言ったのは翌朝のことであった。
黒脛巾組の縄張りではあるものの、国境まではまだあると言う。
伊達に好意的な村落は増えてくるが油断はならぬ、と彼はいった。その言葉に皆が気を引き締める。
念には念を入れて政宗が乗る荷車には人を寄せないよう、水を飲ませる時以外は決して筵をあげないようにと蔦が言うと、ならばもっと頭を使いましょうと頭目が言った。
彼は怪我をした者たちにはより大げさに、五体満足な者には身体を欠損したように装わせることを小十郎に提案したのだ。
「わが軍の敗走はすでに伝わっておりますゆえ、念には念を。落ち武者狩りでなければ、怪我人は丁重に扱ってくれるものです――それが人の情というものですから。大げさに『怪我をした』者たちのおかげで、兵は休めますし、政宗様に近づく者もないはずです。それに筵で隠し通せば国主が目覚めないと知られることもないでしょうから、無用な動揺を民に広げることも防げるでしょう。敗北と言うだけで民は動揺しておりますから」
頭目の言葉に頷きつつも、小十郎は顎を撫でた。兵士たちの怪我を酷く見せることで村人たちの丁重な扱いを引き出すのはともかくも、それがどうして同時に人々を政宗から遠ざけることになるのか、彼には少しばかりわかりかねた。
「……もし荷車に興味を持って莚をよけろと言われたらどうする」
「しばらく筵に手が届かないように阻んでいただければ、勧進帳よりも見事な演技をしてみましょうぞ」
小十郎の懸念に、黒脛巾の頭目は表情一つ変えずに言ってのけた。
事実、黒脛巾組が選んで立ち寄った村々――一村落に全員ではなく、休ませる兵を入れ替えながら数か所に立ち寄った――にも悪気はなく好奇心で「それは何か」と政宗の荷車に近づくものがあった。
蔦と小十郎が彼らを阻めば、怪我を装った頭目はその場で落涙し、これはわが友の亡骸、せめて残された妻と幼子の下へと返してやりたく、とまさしく絶望の中わずかな光にすがりつくような声を出した。そうするとほとんどの者が納得し哀れみと遠慮をみせて引き下がった。が、それでも莚をはがせという者には頭目は、これなる遺骸は刀傷多く、指は落ち、鼻は削がれ耳は盗られ、顔は潰れておりまする、ご覧下され後に続く我が同胞を、腕をなくして命拾ったもの、脚を切られて魂繋いだもの、皆あのような姿になってしまいました、亡骸はそれを上回りまするが、ご覧になられますか――と涙声で重ねて言いながら筵に手をかけた。すると聞かされた無残な姿を想像したのかさすがにみな躊躇し、その場を離れ、中には穢れたものを見た顔をしながら早く行けと言うものもあった。
村を離れると、先ほどまで無念の涙顔をしていた頭目はケロリとした顔をしていて、小十郎は黒脛巾の者たちの働きぶりに感嘆した。懸念は見事に晴れ、合点がいった。その様子にこちらも大げさに包帯を巻いて怪我を装った蔦が「あれが彼らの勤めにございます」と言った。
小十郎が
「成程、忍も使ってみるものか」
と言えば彼女は苦笑して
「政宗さまも片倉さまも、忍があまりお好きではありませんからねぇ」
と言った。


道々、政宗を守る小十郎は必然、政宗の世話をする蔦の近くにいることが多かった。
だが荷車を止め、政宗の世話を終えると蔦は常にだれかに呼ばれてそこを離れることが多かった。
やれ包帯が緩んだだの、やれ傷を診てほしいだのと兵たちに呼ばれるのだ。
――甘えているのだ。
と小十郎は思う。村人の優しさに触れ情に触れ、戦が遠のき兵たちに気の緩みが出てきたのかもしれない。
「――蔦殿」
幾度目かの兵士たちの手当てを終えて戻ってきた蔦に、小十郎は声をかける。
「はい?」
「あまり、俺の側を離れませんように。お守りできない」
渋面を作ってまで出した言葉はしかし、脳内でよく考えずに喉を滑り出たもので小十郎は自分でもその内容に驚いた。蔦は目を見開き――その後目を細める。口元には、苦笑。そして弧を描いた紅い唇が言葉を紡ぐ。
「かいなはふたつしかありません」
「……?」
「腕は、二本」
眉を寄せた小十郎に蔦は掌を上にして腕を差し出す。見せるために差し出したのだとわかる動作だった。
彼女のか細い腕を見下ろしながら小十郎がわずか首をかしげると、蔦も首を傾けた。しかしこちらは、話をよく聞かせようとする女の仕草だった。
そして彼女はまず、右手で拳を作った。
「こちらは、自分を」
そして、左でも拳。
「こちらは、誰かを」
蔦はそう言って一度自分の拳を見つめ、ふたたび小十郎を仰ぎ見る。
「腕は二本しかありませんから、二つまでしか守れません」
言われて、小十郎は彼女の言いたいことを悟った。だがあえて、彼女自身の言葉を受ける。
「贅沢をなさってはいけません。片倉さまのお守りするもうひとつはもう決まっておいででしょう?」
「……」
――ひとつは己を、もう一つは……。
小十郎は思わず荷車を見やった。それにつられたように同じものを見た蔦が腕を下ろす。そこには政宗がいる。小十郎が「武士の作法を知らぬものよ、やはり下賤の者よ」と罵られ笑われながらも刀を通例とは逆の右腰に差してまで守ろうとした存在。かつての御曹司、輝宗の嫡男、今の国主。
それはかつて、小十郎が蔦を拒否し示した「もう一つの守るべきもの」であった。
彼女は言外に自分がそれを忘れてはいないことを、そして小十郎がかつて示した選択を彼の前にあらためて厳然と晒したのだった。
「――父が言っていました。人ひとりには腕が二本、それでようやっと自分ともうひとりを守れる。そこから徒党を組んだり、……夫婦になったりして、少しずつ力を分け合ってまた別な誰かを守れるようになるのだと」
続く蔦の言葉は優しい拒絶だったのかもしれない。それに小十郎はいたたまれずに口を開いていた。
「……だが指は、五本ずつ、ある」
蔦はますます苦笑したようだった。
「ありがとうございます。お気持ちだけ。私にも、腕が二本あります。それも、片方空いた腕が」
――自分のことは、自分で何とかする。
そういう声を言葉の裏に聞いて、小十郎は「そうか」とだけ応えた。
……どこぞで休んでいた荷車の人夫を任せた者が戻ってきた。二人は自然、政宗の荷車のすぐそばに着く。それまで政宗のそばであればこだわりなくしていた蔦は、今度は政宗を挟んだ向こう側に自分の位置を決めたようだった。
きっと蔦には「お守りできない」と言う言葉は滑稽な愚か者の言葉に聞こえたに違いない、と小十郎は思う……。
車輪が回り、いささか不安な音を立てて地を踏みつけていく。合間に落ちたのは気まずい沈黙。
歩みを止めることなく、また視線は前に向けたままで小十郎は口を開いた。少し意識して腹に力を入れた声を出す。
「……御仲居ではなく、なぜ火之番になられた」
ガラガラという重そうな音の向こうで景色は動く。蔦が城に仕え始めた時、たしか厨でも働き手を求めていたはずだ。そちらであれば、蔦も奥で女だてらに警護の任に就くこともなく、今ここにいなかったかもしれない――そう思って、聞いたのだ。
「……――小さい頃、父と叔父が戦に行くのが不思議でした。母や義叔母が行かないのも」
大町の検断職を務める矢内家は、騎馬と町衆を率いて戦に出る――そういう家であった。すでに政宗の祖父晴宗のころにはそうして仕えていた家だ。
「どうしてなの、って聞くと、父は言うんです。女は戦には出ないものだって。でも、読み物の中には板額御前や巴御前のような人もいるわって、私、口答えしたんです」
小十郎は蔦を見た。政宗の向こうで彼女は前を見て、苦笑している。
「父はそうしたら、そうだなぁ、そういう人もいたなぁ、って。それで、弓を習わせてくれました」
「お父上はあなたを戦に出すつもりだったのか」
「いいえ、私には弟がおりますから――姉もいますけれど……。姉はそういうことはまったくダメで」
懐かしげに笑って、蔦は続ける。
「母は、反対しましたけれど――父はまあ、何かの足しになるだろうと。叔父は、“もしもの時に役に立つ”と言って、母と義叔母に叱られていましたけれど――」
蔦はそこで、続くはずだった言葉を切った。彼女が何を言おうとしたか、小十郎は理解した。
今がその、もしもの時、なのだ。
「火之番のお話があった時、ああ私きっとこのお役にたつためにあの疑問を持ったんだわ、って思いました。愛姫様をお守りするため、伊達のお役にたつため、と。……父はあまりいい顔をしませんでしたけれど」
小十郎は沈黙をもって先を促した。前を向いたままの蔦は、察したのか察さないのか、小十郎にはわからないままに言葉を継いだ。
「父は、武器は命を奪うモノだから命産む女が持つものではない、と。習い事ならともかくそれでお城に仕えることになるとは……とも。……そう思うなら、弓を習い始めた頃に言えばよかったのに」


隊列は北へ北へと進む。
同じような林が続く中でも木々の色は濃くなりその香りは見知ったものとなり、大気は冷たいが肺に馴染むものになる。土の色も見知らぬ赤黒いものから白茶けたものへと変化していく。
一足ずつ、全てに馴染みが増えてくるようだ。
風の音、土の感触、陽光の柔らかさ。空気に混じる水の気配。
国が近い。近づいてくる。いや、近づいていっているのだ。
だが。
――異変。黒い何か。
故郷が近づき兵士たちの足取りが軽くなっていく。なのに、小十郎は妙な重さを背後に感じて肩越しに振り返る。
街道と呼ぶには狭い山の道。両脇はまばらな林だ。
負傷した者たちの隊列は延々と続いている。
足元には自然に踏み固められた道。今来た道はずっと後方まで続いている。
……その、向こう。
妙な重さ――あるいは気配はそこからじわりじわりと近づいてくる。しかも、肌の粟立つような良くないものだ。
小十郎はついに政宗の荷車の横で歩みを止め、肩だけではなく体ごと振り返った。
人夫役もつられたのか荷車が速度を落とし、傍らの蔦も振り返った。その気配を背中に感じつつ、さらに殿軍の方へ目を凝らす。
佐藤定郷が馬を行きつ戻りつさせつつ、片手には槍を下げて隊列を制御しているのが見て取れた。
小十郎はふと、その役目を彼に頼んだだろうかと思った。槍も馬上では重かろうに、どうしたことだ。まして、騎乗しろ、と命じていただろうか?
その時、ピタリと定郷の馬が足を止めた。馬の鼻は隊列後方を向いている。
――気付いている。
自分と同じ気配に。小十郎は悟った。視界を広くすれば、標郷と秀直も兄の様子から何かに気付いたのか、それぞれに緊張するのが見えた。小十郎は馬を引く兵士を呼んだ。そして連れてこられた愛馬の手綱をとって馬上の人となる。
「どうかしたのですか?」
背後から蔦の柔らかい声がした。小十郎の緊張とは裏腹の優しい声。その声に小十郎は馬上で背を伸ばし、力を腕へ、足へ――そして胸に入れた。
――……守らねばなるまい。
小十郎は蔦には答えなかった。ただひとつ、黒脛巾の者を呼びよせる。
「付近に散ったものから何か――」
――知らせはないか。
それを確かめようと小十郎が忍にそう言いかけた時だった。
隊列のはるか後方、そこから法螺貝の音が上がった。
「これは――狩りです!」
忍が一言そう言い放った。低く重く広がる法螺の音と同時に、隊列の最後尾が列を崩し始めるのが見て取れた。法螺貝はその音の長短で何があったかを知らせている。空気を震わせ、敵襲、と大音声で告げているのだ。
負傷した兵が転げるようにこちらへ向かってきて、無事なものたちが法螺の音に反応して踏みとどまり刀や槍に手をかけ身構え始める。
小十郎は政宗の荷車へ振り返った。
「引き手! 速度をあげろ! 落ち武者狩りだ!!」
法螺の低い音が、地を這ってくる――その向こうから、気配が来る。敵意を持った者が来る。
気配はまず音となり、伊達軍のものではない飢えた声と力強い足音となって兵たちに襲い来る。
荷車を引く者が足を速めた。必要ならば馬につなげ、と叫んで小十郎は蔦が立ちつくしたままでいることに気付いた。
――何が起こっているのか理解していない。
小十郎は瞬時に気付いて、馬を彼女へ寄せる。その脇を次から次へと兵士たちが駆け抜けていく。
「何が」
「落ち武者狩りです。早くお逃げを!」
「ここは奥州では?!」
蔦が目を見開いて問う。
「伊達の領内ではないと黒脛巾組が言っていたが、どうやら現実になってしまったようだ」
「何のことです?!」
「奥州には伊達家だけだとお思いか! 我々の首をとって他家に取り入ろうとする気概があるものがいたようだ」
小十郎は挑戦的に口の端を釣り上げた。蔦はその表情で彼の言ったことを理解したようだった――青ざめたのだ。
落ち武者狩り。
敗者を農民が追い立てて、鎧や刀を奪い生活の糧を得、あるいは時に殺し、首をとり、立身出世を目論む行為――否、まさしく生きるための「狩り」だ。獲物が「人」であるだけで、生活の糧を得、自らの生活をよりよくしようとするその行為は獣を相手にした「狩り」となんら変わらない。
「誰か、蔦殿に馬を!」
小十郎はそう言った後、鐙に立ち上がる。
「片倉隊! 殿軍を固めろ!」
その大音声に幾人かの兵士が偽りの怪我の装いを棄て「応」と答え、刀を抜き槍を掲げた。
殿軍を固めよ、と定郷、標郷、秀直の三重の声が続いた。
自らの部下たちが逃げる兵士の来た方に進み出たのを見て、小十郎も馬を進めかけ――ふと、気付いた。そして叱りつけるように叫ぶ。
「早く逃げられよ!」
馬に乗った黒脛巾組の一人が、蔦に馬上へ乗るように幾度も声をかけていた。
だが蔦は固まったように動かない。
「私も残ります」
「だめだ。あなたの役割は伝令だ。立派にお勤めになされた。十分だ、戻られよ」
なだめるように言えば蔦は首を振った。
「飛び道具がないようです――弓矢でお役にたちます」
その言葉に小十郎が強情を言うな、と声をあげようとしたときだった。
するどく風を切る音が一陣。直後、蔦を撤退させようとしていた黒脛巾組の者がうめき声をあげて馬から転がり落ちた。驚いてみれば、もがく男の左肩に投げ槍が突き立っている。ハッと気づいて林に目をやれば、先回りしたのか野武士が二人木の間を抜けてこちらへ向かってくる――
小十郎は馬上で抜刀した。だがそれよりも早かったのは蔦だ。
弓矢を構えてからヒュンと風を切る音が二つ。
直後放たれた矢はまっすぐに二人の野武士の額に突き立った。
額から脳を射抜かれた野武士は糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
女手でも至近距離で放てば死に至らせるのはたやすい――それが弓矢という武器だ。長距離では敵の機動力を奪い、近距離では命を奪う。
「片倉様!」
小十郎は馬上からしばらく倒れ伏した野武士が本当に動かないかと確認した後、蔦の声に視線を移した。
見れば、今しがた二人の男の命を奪った女は肩に槍を受けた男の介抱をしていた。抜くのは危険と判断したか、手拭いを割いて槍を動かないように固定している。
「無事か」
問われた男はうめき声の中で、はい、と答えた。
「片倉様、この方を国境まで」
「わかった。こいつは俺の馬に乗せる。あなたはその馬に――」
空の鞍を乗せた馬を示して、乗れ、という言葉は耳慣れない怒号にかき消された。
殿軍を突破した落ち武者狩りの連中がまっすぐこちらへ向かってくるのが見えた。
蔦が弓に矢を番える。その間に乗り手のいない馬は恐怖の嘶きをあげて、逃げる伊達の兵士たちを追うように行ってしまった。
「片倉様、お早く! 私が時間を稼ぎます!」
「しかし!」
「将の役割は生き残ることです!」
蔦はキリキリと弦を引き前を睨みつけながら小十郎に言う。
「一兵卒は国を守るため死にます。しかし将は国を守るため生きねばなりません。まして片倉様は国主の右目」
そこで蔦は顔を少し小十郎へ向けた。
「片倉様が命を投げ出すのは政宗様のためであるべきです」
言い終えて、一矢空気を引き裂いた。
遠くで野武士が矢を受けて膝をついた。
それを見届けて蔦は叫んだ。
「お早く!」
――片倉様が命を投げ出すのは政宗様のためであるべきです。
その言葉が脳内に再び響き、小十郎は大音声を出す。
「佐藤定郷!!」
その大音声に殿軍の男が一人振り返った。最も歳の近い小十郎の家来。時に辛辣だがその分有能だ。
「殿軍は任せる!」
「御意! ご武運を!」
言いながら、定郷は不用意に近づいてきた野武士の一人に槍を突き立てた。
その少し離れた所で秀直が槍を、標郷が太刀をふるっている。
――これならば。
小十郎は部下たちから蔦へ目を移した。矢を放ち終えた彼女は負傷した忍を小十郎の馬上へ押し上げていた。それを荷物のように引きとり乱暴に鞍の前に上げ、小十郎は言う。
「あなたもです!」
「馬が潰れてしまいます!」
小十郎が手を差し出しながら再度言えば蔦は首を振りながら後退した。
「ダメだ、おいてはいけない」
蔦に腹をみせる馬体を横へ歩かせ、なおも手を伸ばす。蔦がぐっと弓を握って、胸元に引き寄せた。その目が差し出された手と小十郎を交互に見比べ――そして、笑った。
その表情に小十郎はやわらかな手が触れてくることを期待した。
だが。
「お行き!」
蔦は腕を動かした――小十郎の手をとるためにではなく、弓を振って馬の尻のあたりを打つために。
ピシリと音がして、馬はいななきとともに前足を振り上げた。
小十郎は意味の成さない言葉をこぼし、蔦に差しだしていた手で思わず鞍の前へ置いた忍の者を抑え込んだ。
その間に馬脚はあっという間に蔦から遠ざかる。小十郎はもう一方の手で手綱を強く、強く引く――だが馬は止まらない。
「止まれ――ダメだ!」
どうしたことだ。いつもなら主の手綱に忠実に緩める速度も、そのままだ。
激しく揺られるままに、肩越しに振り返れば蔦は満足したように頷いたようだった。――そして、彼女は矢を番えながら小十郎に背を向ける。それがひどく緩慢な動作に見えて小十郎の目に焼きついた。そして姿は小さくなり、やがてゆるりと盛りあがった道の向こうに消えた。
そこで小十郎は仕方なしに、ぎこちなく、前に向き直った。
馬はまっすぐに進む――政宗の荷車が進んだ道を。
どれだけ走ったか。揺れる馬上で右の手で負傷した忍を落ちないように押さえつけ、左手で手綱を繰る――ビリビリと手がしびれてきた。こんなことは、馬に乗り慣れなかった、城に上がってすぐ以来のことだ。
やがて、道が開け――人が溢れる場に出た。
「小十郎!!」
若い声。馬が速度を落とし、いくらか足踏みするように止まった。
息が上がり、肩が上下する――馬だけではなく、小十郎もだ。
「小十郎!」
気配が近づいてくる。それを目に入れる前に、小十郎はその声と気配の主を言い当てた。
「成実」
言い終えてから目を当てれば、政宗よりひとつ下の声の主は厳しい表情をしていた。
「やっと来た。なにしてたんだよ。梵は、ちゃんとした輿に乗せるよ――」
言われて見渡せば、政宗の荷車は水平に止められ筵をはがされていた。幾人かがそこへまとわりつき、国主に何が起こったのか確かめている。
「狩りの連中は?」
「――殿軍に俺の部隊を置いて来た」
荒い息の間でそう言って、小十郎は辺りを見た。
そこで初めて、開けたその場に二種類の人間がいることに気付いた。
傷つき怯えた兵と――五体満足、覇気に満ちた兵。
前者は小十郎が引き連れた兵で、後者は成実が率いた者たちだった。
「いくら出そう?」
成実のその言葉は「どのくらいの人数ならば殿軍を救えるか」というものだった。この若者の気性は、やはり国主の従兄に似たのだと思わされる。殿軍は本来、戻らない覚悟を決めたものを置いてくるのだというのに。
「わずか。将はあまり突出したのを出すな。お前は残れ。兵は将の声の届く人数でいい」
それを言うと、成実はわずか眉を寄せた。残れと言われたのが不満なのか、それとも手勢が少ないと思ったのか。
「殿軍を任せたのは誰?」
「佐藤次郎右衛門定郷」
「知ってる! 父上が褒めていたのを聞いたことがある!」
そういえば定郷と標郷は小十郎に仕える前わずかな間だが成実の父、実元のところにいたことがあったか――成実の明るい声にぼんやりと小十郎は思い出した。
「そいつ、手当しなきゃね」
話題が逸れて、成実が小十郎の鞍の前に乱暴に積まれている忍を示した。すると気付いた成実の配下が走り寄り、馬上から負傷した忍を引き下ろした。
そこで、小十郎はやっと息をついた。そして馬を下りる。手綱は成実の配下に任せた。
ぐったりと疲れが脚に乗るようだった。地の力にひかれて膝をつきそうになる。だが足裏に力を込め、進む。向かうところはひとつ、政宗のもとだ――成実が将兵に命じる声が背中にぶつかった。
荷車に近づくと、医者や薬師が小十郎のために場を開けた。政宗はきつく目を閉じているようだった。右手には――蔦が運んだ――愛姫の御守を握りしめたまま。
「政宗様――」
答えるようなうめき声。だが政宗の口が意味を持つ言葉を発することはなかった。
小十郎は医者と薬師に政宗が負傷した状況を問われ、答えた。また小十郎からも彼らに政宗の今の状態を聞き返す。そんなことを数度繰り返していると
「あねうえ」
といういやに幼い声が小十郎の耳朶を打った。声にひかれて振り返れば、兵たちの間を縫うように真新しい鎧を付けた男が行く――見たところは元服を終えたばかり、これが初陣であるという様子の少年と言ってもいい。
「姉上」
あねうえ――と呼ばわりながら、少年は兵の間を探して歩く。
小十郎は医者たちに後を任せて政宗の元を離れる。一直線に少年を目指し、その背に
「おい」
と声をかけた。何かを探しあぐねていたような少年ははじかれたように小十郎を振り返った。その驚いたような顔に、小十郎もまた驚いた。似ているのだ――
「……お前は誰だ」
驚きつつ問えば少年は飛び上がるようにしたあと、ザッと平伏した。
「わたくしは大町が検断職、矢内和泉重定が名代、嫡男藤兵衛信定と申します――本日は大町衆を率い馳せ参じた次第」
きっと暗記してきたのだろう、違和感を覚えるほどスラスラと口上を述べる少年に小十郎は再び衝撃をうける。どうりで似ていると思ったのだ――この少年の父は矢内重定だという。その名は、あの遠くなってしまった見合いの日、蔦の傍らにいた父の名と一緒であった。否、その身分も、である。
「矢内殿の、息子か」
「はい――この度のことは他国に広まってはならぬことゆえと検断自らは動かずわたくしが代わりに参りました。大町衆も定められた数よりは少なくございますが、代わりに精鋭を――」
「では蔦殿の、弟御か」
たしか成実も他国に訓練と言い逃れできる手勢と範囲にとどめて待機していたはずだ――それと同じく用心に用心を施した、町人に近い、緊急時に召集される兵卒の詳細を聞きながらも、小十郎の口を衝いて出たのは軍師としてそれを検めるものではなかった。
その問いに「は?」と言う顔をした信定という少年はそれでもすぐにはい、と答えた。
「はい、蔦は姉です。――姉上をご存じですか?」
見上げてくる顔は、蔦にそっくりだ。特に目が――まっすぐな目が。小十郎は慄いて後ずさりしそうになる足に力を込めた。信定というこの少年は俺を――蔦と見合いをした俺を――知らない。おそらくは平伏した理由も小十郎の身なりから将の一人と判断し、反射的に伏したにすぎないのだろう。そのことに奇妙な安堵を覚えつつも、小十郎は立ちつくしていた。
「姉上――姉は、奥方様の名代として皆さまをお迎えに行ったと――聞きました。姉の御役目は終わりましたよね? 姉は、どこでしょう?」
あねうえ――信定の発したその言葉が小十郎の脳内で別なものに入れ替わる。あねうえ、と脳に響いたのはかつての自分の声。幼少期の、今のように低く男らしい声ではなかった頃の、頼りない甲高い子供の声。小十郎は無意識に首にかけた御守りを――小十郎の姉喜多が信定の姉である蔦に持たせた御守りを――探り、そして首筋にかかるその紐を握りしめた。
ずっと幼いころ、自分も姉を探したものだ――暗くなった庭先や、人の多い通りで。この少年と同じく、人の間を縫って探した――優しく、強い姉を。父や母とも違う、その複雑な存在を。
『蔦が道中無事でありますように。そして蔦が小十郎の妻となりますように。』
御守りに隠された姉の願いと、「お行き」と馬を打った蔦の顔が重なった。そして、最後に見た弓を構える後姿。

――返さなければ、姉をこの弟に。
――帰さなければ、あの娘を家族の元に。
――還さなければ、蔦をこの国に。

「――お前の姉上は……蔦殿は、俺が連れて帰る」
え、と信定が声をあげるのと同時に小十郎は馬を呼んだ。そして再び小十郎は馬上の人となり、蹲る兵たちを蹴散らしながら元来た道を戻った。

2013年12月31日初出

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