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姫と妻
其の弐
その翌日、三日後に遊びに来ないかと愛姫から蔦へ誘いがあって、蔦は日が来ると出掛けていった。
城の入り口にて身分と用向きを伝えれば、出てきたのは喜多とこの間の“侍女頭”である。また息苦しい空気の中、蔦は歩いた。愛姫の部屋にたどり着いて姫がぱっと花咲くように笑ったのを見てほっとする。
「来てくださったのね!ありがとう、とってもとっても嬉しいわ!」
伏した蔦に愛姫が膝でにじり進もうとすると、“田村の侍女頭”がそれを制した。愛姫がはっとそちらを見て、意気消沈したようになった。蔦があわてて膝で進む。
「こちらこそお招きいただきありがとうございます」
言うと、愛姫の顔に明るさが戻った。
「今日蔦を呼んだのはね、火熨斗を教えてもらおうと思って……」
秘密を打ち明けるかのように言う愛姫に田村の侍女が眉根を寄せるのが見えた。それに無邪気を装って気づかない振りをして、蔦は姫に問う。
「火熨斗を?」
「ええ。政宗さまといらっしゃる小十郎殿のお召し物はいつもピンとしています。お聞きしたら蔦が手ずから火熨斗をかけてくれています、と。
わたくしも針仕事はいくらかできますが、火熨斗はだめと」
そこで愛姫はちらりと傍らをみた。すると田村の侍女はにべもなく言う。
「火熨斗は針に比べてずっと危のうございます。姫様の御手に火ぶくれでもできたら」
おそろしゅうございます、と言う田村の侍女の言うこともわからないではない、と蔦は思った。
「……でも愛も、政宗様のお召し物をピンとさせて喜んでいただきたいと思いました」
シュンとして言う愛姫がいじらしいと思う。蔦はふんわりと優しいものに包まれた。
「でも確かに、火熨斗を使えばはじめは二度か三度は火傷をいたしますよ?」
蔦がそういえば、愛姫は覚悟を決めたような顔をした。
「でもそれが妻としてのつとめなら、愛も果たしたく思います。……だから喜多にわがままを言って、蔦を呼んでもらいました」
言われてはっと蔦は気づいた。思えば火熨斗に反対する田村の侍女が蔦を呼ぶとは思えない。あれは喜多が寄越した使いだったのか。見れば先ほどから田村の侍女頭とやらがおもしろくなさそうな顔をしており、喜多は胸を張っている。
「教えていただけますか?」
健気に聞いてくる愛姫に蔦は折れた。
「ええ。では手ぬぐいにでもまず火熨斗をかけてみましょう」
そう言うと、またぱっと愛姫の顔が輝いた。すると田村の侍女が傲然と立ち上がった。
「火熨斗と手ぬぐいのご準備をいたしする」
つかつかと進んでいく田村の侍女に愛姫が不安そうな顔をしたのを蔦は目の端でとらえていた。
「わあ」
炭を入れた火熨斗の底でくしゃくしゃの手ぬぐいをさっと延べて、きれいに四つに畳んでみせれば愛姫は歓声をあげた。大したことはしておりませぬよ、と蔦が言えば愛姫は首を振る。
「蔦は毎日この何倍もの大きさの着物に火熨斗をかけているのでしょう?大変なことだわ」
小十郎殿がなんだか嬉しそうな顔をしたはずです、と愛姫が続けたので蔦はびっくりする。
「小十郎さまが?」
「ええ。小十郎殿はとっても誇らしそうだったわ。自分にはもったいない妻です、とおっしゃって」
その言葉に、まったくもって、と喜多が続けたので愛姫は笑った。
愛姫の言葉が胸に染みて、蔦はほうっと息を付いた。
「小十郎殿は蔦に直接言ったことがないのですか?」
蔦の様子に気づいてどう目した愛姫に蔦は胸元を押さえた。
「ええ、あまり――でも姫様のおかげで嬉しいことを知ることができました。ありがとうございます」
頭を下げる蔦に愛姫はそれならよかったわ、と嬉しげに言った。
その二人の間に、冷えた声が落ちる。
「火熨斗が冷めてしまいます。炭を変えて参りましょう」
そう言う田村の侍女に蔦は、まだ冷めはしません、と言いかけて口を紡ぐ。田村の侍女は火熨斗の柄を掴むとさっさと行ってしまった。そんな侍女を眺めて、不意に愛姫が蔦に向き直った。
「ごめんなさい、とよは伊達に来てからずっとあんな感じなの。もともとは優しい人なんですけれど、慣れないのかピリピリして」
気遣わしげな愛姫の言葉に、蔦は大丈夫と首を振った。そんな蔦の耳に「姫様に心配をおかけするとは至らない者ですね」との喜多の声が聞こえて、一瞬自分が怒られたのかと思ったが、喜多が明確に誰と言わなかったのが田村の侍女のことだと気づいて蔦は肝を冷やした。愛姫は困った顔をした。
やがて田村の侍女頭だというとよが戻ってきた。
それを受け取ろうとする愛姫を制して蔦が手を伸ばす。慣れない愛姫が火傷をしないようにと、高いところから差し出された火熨斗に気を使ったのだ。
――その時、ひょいと火熨斗が思わぬ動きをした。
「――っ、つ」
じり、と蔦の右手の甲に痛みと熱が走った。
「蔦!」
思わず手を引っ込めた蔦に愛姫と喜多が声を上げる。見れば熱せられた火熨斗が当たったらしい右手の甲はすでに赤くなっている。
「まあ、なんと申し訳ありません。でも片倉の奥様も不注意でしたね」
演技じみた声を出し、続けて嫌味たらしく言ったとよという“侍女頭”に愛姫は驚き、喜多は目をつり上げた。
「――申し訳ありません」
「いいえ、それより早く冷やさないと!」
右手を押さえる蔦にそう言った愛姫の言葉に、真っ先に動いたのは喜多だった。
「蔦、井戸に参りますよ。ついていらっしゃい」
井戸でざばざばと右手に冷水をかけられる。
「申し訳ありません、不注意で」
「不注意なものですか。火熨斗を上から差し出すなんて。まして柄はあなたの方をすっかり向いてはいませんでしたよ。あの女、いつかやるとは思っていましたが、まさか蔦にやるとは」
――面と向かって私に炭を投げつければよかったものを、という喜多に蔦は苦笑する。
喜多は強い。弟の小十郎だけでなく政宗や時宗丸、いや先頃元服して成実となった彼ですらおそれるのだ。昨日今日やってきたただの女が敵うはずがない。
「義姉上、あのお方とは」
「あのお方、というよりも田村から来たものたちですね。ここは伊達だというのに、田村は、田村は、とばかり。姫様までしかりつけて。まったく至らないにもほどがあります」
怒りにまかせて水を浴びせてくる喜多に蔦は、もうだいぶ冷えました、と言う。それから右手を開いたり閉じたりしてみる。引きつれる感じがして顔をしかめると、喜多が心配そうにのぞき込んできた。
「馬の油を用意させましょう。蔦、姫様の部屋はわかりますね。私は油をとってきますから、先に戻っていなさい」
「はい」
蔦は左手で右手首を押さえて立ち上がり、歩きだした。
廊下を行く途中、曲がり角にくるとなにやら声が聞こえてきた。
「喜多どのは片倉どのの姉だとか。姫様と片倉どのの嫁どのがお近づきになることは、すなわち、喜多どのの権勢が奥にて強くなることになります」
蔦は思わず歩みをとめて一歩後ずさった。
「それでは田村の沽券に関わります。みなさま、おわかりですね。伊達を強めてはいけません」
――この度の痛い目でわかればいいのですけれど、という言葉まで聞こえてきて蔦は目を丸くする。
はて、愛姫は伊達に嫁いできたのではなかったか。田村の沽券とは何だろう。
蔦は考えた。たしかに子を産むまで嫁は未だ家族ではない、とする者もいるが、今曲がり角の向こうで話しているのは伊達の者ではない。彼女たちは何を言っているのか。すでに愛姫は伊達政宗の妻であるから、伊達のものである。田村の沽券などと――婚儀は家と家とのことはいえそこに侍女ごときが立ち入るべきものではない。蔦が聞こえてくる声に立ち尽くしていると、その背中に大きな声がぶつかった。
「蔦、先に待っていなさいと言ったでしょう」
驚いて振り返れば、喜多が曲がり角を睨みつけている。
曲がり角の向こうで、ばたばたとはしたない足音がした。
馬の油を喜多から受け取った愛姫は自分のせいでないのに、ごめんなさいね、と言いながら手ずから蔦の火傷に油を塗って包帯を巻いた。
「いえ、私の注意不足ですから」
といえば愛姫は無言で首を振った。
――結局その日、愛姫は火熨斗を握ることはなく、蔦は暗くなった気持ちを抱えて屋敷に戻った。
小十郎が屋敷に戻るまで、いつも通りに物事をこなそうとして利き手の重要さを思い知る。
火熨斗は満足にかけられないので明日の小十郎の着物のことは女中に頼んだ。出来上がりを見ればやはり自分でやったものではないので気にかかるところがいくつか見あたったが、どうしようもないのでため息を付くばかりだ。左手でできることは限られ、手持ちぶさたにして過ごす。こんなことは嫁いできてから初めてだ。
やがて小十郎が戻ってきた。伏して迎える妻右手に巻いてある包帯にすぐに気づいて、小十郎はさっとひざまづいた。
「これはどうした?」
妻の右手を取り上げて、小十郎は眉を寄せた。蔦はあ、と一瞬戸惑う。
「火熨斗でひいてしまいまして」
「火傷か!」
小十郎は言ってため息を付いた。
「お前がここまでの火傷なんて、初めてじゃないか。何かあったんじゃないだろうな」
鋭くそう言った後、ふと小十郎は蔦の右手を持ち上げ支える己の左手を見た。そして眉を寄せる。
「俺は左利きだが、お前は右利きだ。……、右手を右手でひいたのか? それともお前も左手を使おうってのか」
ぐっと目を強くのぞき込まれて――蔦は観念してしまった。
蔦の手に巻かれた包帯をほどき、用意させた桶に張ったで水で火傷を洗い、乾いた油を流す。手ぬぐいで丁寧に水を拭き取って、新しく馬の油を塗る。刺激に顔をしかめた蔦に小十郎は言った。
「悪い。だが、我慢してくれ」
「わかっております」
はあ、と蔦がため息を付く。
「なんか言いたいことがあるんじゃねぇか。言ってみろ、ん?」
甘やかすかのような言葉に、蔦の緊張がゆるゆるとほどけていく。
「でも今回は私の不注意もありますし」
「俺はそうは思わねぇがな」
手慣れた様子で包帯を巻き直す小十郎はむっとしたように言う。蔦はため息をついた。
「義姉上もそうお思いのようです。でも、それより」
蔦の気にかかるのは愛姫の様子だ。
「侍女同士の不和が姫様のお心を痛めているのではないかと。義姉上も折り合うような方ではありませんし、田村の方々も譲る気はないようです。姫様にとっては田村の方はご実家から一緒の方ですし、伊達は姫様がこれから生きていくところです……」
はあ、と小十郎がため息をついた。
「それと……思い過ごしだといいのですけれど」
「なんだ、言ってみろ」
蔦はつかの間目を泳がせた。
「田村の皆様のしていることがただの女の意地や女の奥での領地争いでなく……、お家の事情も関わっているとすると、なんだか嫌な予感がいたします」
包帯を巻き終わった小十郎が、そのまま左手で蔦の右手首を掴み、そこをさするように撫でた。
「女の意地、というのはよくわからねぇが、お家となると政宗様にも関わってくる。気にくわねぇな」
「ええ」
「もっと気にくわねぇのはお前の手を火傷させたヤツだ。たが、俺は首を突っ込めねぇ」
小十郎の無骨で大きな手が、蔦の手を包み込む。火熨斗と違って優しい暖かさだ、と思う。
「……、手、だいぶ荒れたな」
「え……?」
いや、と小十郎は火傷のところにふれないように、今度は右手で指先を包み込む。右手をすっかりとらえられて、蔦は戸惑う。
「前から働き者の手だったとは思うが……荒れてる」
「……申し訳ありません」
「……、そんなんじゃねえよ」
小十郎はじっと蔦の目を見た。蔦はそれを見返しつつも、首を傾げる。
「家のことだけでも手が荒れるってのに……、火傷までしちまって」
不意に小十郎が右手を蔦の手から離し、ぐいと左手を引いた。
「!」
蔦の体が傾いですっぽりと小十郎の胸におさまった。着物の下に厚い筋肉を感じて蔦の体がどうしてかおののく。
その蔦をしっかり抱きしめると、小十郎がぽつりと言った。
「苦労かける。……すまねぇ」
蔦はその声の心地よい低音に目を閉じ、小十郎の胸に顔をすり寄せた。
「姉上には伝えておく」
「心配ないでしょうが、せめて義姉上は姫様第一で」
「それもそうだが、お前のこともだ。今度こんなことがあったら、俺の関わっちゃいけねぇ奥のことだとはいえ、堪忍袋の緒がもたねぇ」
どくどくと聞こえてきた小十郎の鼓動に蔦はいろいろな気持ちがない交ぜになったため息をつき、しかしなぜか暖かな気持ちになってすっかりと小十郎に身を任せた。
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