|
蛟眠る
第十四話
物言わぬ蔦を抱いて馬を走らせる――夕刻が近づいてきて空気が冷えて来たのか、靄のようなものが大地を這うように生じては広がり始めていた。
――おかしい。
馬を走らせながら小十郎は困惑していた。
――どこかで道を間違えたのか?
先ほど成実の率いる部隊と落ち合った場所へと向かっている筈が、いつまでたっても辿りつかないのだ。
林と人の往来で踏み固められた道は先ほど来た道と同じものに見える。だが、何かが違うのだ。
しかし。
――辻があったわけじゃねぇ。
ほぼ一本道の筈だ。外れるとしても馬の通れぬ獣道があるだけだったはず。
だが、いくら馬を進めても違和感だけが続き、増えてくるはずの味方の気配もない。
そういえば、成実が出したはずの増援はどうなった? 蔦と佐藤兄弟とかちあったあの場所にすら思いかえせば一人もいなかったことに気付いて、小十郎ははっとした。
手綱を引いて馬の速度を緩める。
「標郷、秀直、ここがどこか、分かるか――」
そう言いながら馬を止め、後ろにいるはずの二人に声をかけ、振り返る。
だがそこには靄を濃くした霧が広がるだけで、人影すらなかった。
道すら白い向こうへかき消えている。
小十郎は思わずゾッとして、胸元に眠る蔦を強く抱きしめた。蔦の頭が柔らかく小十郎の胸に更に寄りかかった。
――はぐれたのか。
「標郷、秀直」
もう一度呼ばわり、応えを待つ。だが声は響いた後、霧に飲みこまれて消えていっただけだった。
そのかわりに、チュン、という鳴き声が聞こえて小十郎は振り仰いだ。
雲よりも低い位置にある霧によって白い空に茶色の小さな影がふたつ。チュン、チュン、と二羽の雀が互いに鳴き呼ばわりながら彼の頭上を旋回していた。
やがて雀は驚いたことに彼の元へとまっすぐに、躊躇することなく降りてきた。
一羽は馬の頭に止まって小十郎をじっと見つめ、もう一羽は眠る蔦の力ない手の上に降りて彼女と小十郎を見比べるような仕草をした。
二羽は人に怯える様子がなかった。米食う鳥は人に嫌われるがゆえに人に近づかないというのに。それから二羽はまた不思議なことに互いに顔を見合わせると、それぞれの足場を蹴ってまた中空へパッと舞いあがった。
霧の中二羽は円を描きながら、すいと同じ方へ飛んでいく。
小十郎は無意識に馬に命じて、それをゆっくりと追った。
やがて二羽は寝床でもあるのだろうか、霧の中にゆっくりと現れた鮮やかでつややかな緑の連なり――竹の林に消えていった。小十郎は思わず手綱を引いたが、馬はかまわず進んでいく。
小十郎はそれで思考を放棄した。疲れ果てていたせいもあるかもしれない。馬にすべてを任せて竹林を行く。
馬は器用に狭い竹林を抜けていく。鬱蒼としているようで、規律正しい竹の林――雀は何処に行ったのか。瑞々しい緑が辺りを満たす白によく映える、不気味で美しい景色だ。空気は清浄で、冷えているように感じられる。
辺りの景色と同じく、頭にも靄がかかっているようだ。だが蔦だけはしっかりと抱き抱える。蔦の身はまだ柔らかく、ぬくもりさえ失われていないようでそれだけが現実のようにも小十郎は思えた。
やがて目の前に交互にあらわれては消えていた竹の林が不意に消えた。
霧は再び地を這う靄へと変わっていた。
――霧に巻かれて、どこへ来たのか。
馬がひどくゆっくりと足を止め、ピクリと耳を動かした。大地へ目をやれば、まるでそこは町の中の大路のような顔をしている。蔦の生家のある、国元の大町の通りのような、人の往来が多くあり、人の手が入った「路」が足下にあるのだ。
小十郎が戸惑っていると、チュン、とまた頭上で鳴き声がした。また雀が二羽彼の頭上を旋回して導くように飛んでいく。小十郎は今度は自分の意志でもって二羽を追った。馬は素直に主に従う。
チュンチュン、と鳴いて二羽の雀はしばらくすると、ふいに靄の中からのっそりと現れた白い立派な土壁の向こうへ消えてしまった。
白い土壁はその頂点に瓦屋根をのせ、軒には紋様すら彫り込まれている。その立派な塀が、少し先まで続いている。ここはどこかの町はずれだろうか。白壁の向こうは屋敷かそれとも。
入口はどこか――小十郎がそう無意識に考えていると、ザッザッとなにかが地面を掻く音がした。しばらく進むと、霧の中、こちらに背を向けて一心不乱に箒を動かしている人影があった。つるつるの形の良い頭に白布に黒の腰衣――僧侶が雑用をこなす時の格好をした者が通りに散らばった笹の葉を集め、辺りを清めているのだ。その背は意外と小さく、まだ十代前半か半ばか、といったところであった。では僧侶ではなく小坊主といったところか。
小十郎が馬を止めると、その気配に気づいたのだろうか、小坊主が振り返った。――振り返ったその顔がふと誰かに似ていると感じたが、それを誰と認識するよりも前に
「あっ」
と小坊主が声をあげて箒を掴んだまま駆け寄ってきた。馬が鼻息を荒くする。
その馬の様子に手前と言うよりは少し向こうで足を止め、小坊主はそうっとという感じで小十郎を見上げてきた。
「こんなところに、珍しい。どうされました? ……そちらは、奥さまでいらっしゃいますか?」
小十郎は馬上でしばし沈黙した。物おじした様子のない小坊主に戸惑いを覚えたのだ。その間に小坊主がもっと近くへ寄ってきた。それからつま先立ちになって蔦を覗き込もうとする。
無礼な、と言いかけて小十郎は躊躇する。そんな仕草をするのに小坊主は品の良さそうな顔をしているのだ。しかも、やはりなにか見覚えがあるような。
ひとしきり背を伸ばして諦めたのか、小坊主は今度はまっすぐに小十郎を見上げてきた。
「お疲れなのですか? おやすみどころをご用意してもいいか、和尚様に聞いてまいりますね」
小坊主はそう言うと、小十郎の返答を待たずにくるりと踵を返し、箒を重そうな瓦屋根を持つ山門に立てかけ敷居をひょいと越え境内に入ってしまった。
小十郎の口の中に溜まった拒絶の言葉は深い息遣いに代わり吐き出される。
それにしても二階造りの巨大な山門だ。瓦屋根が重そうなのも不思議ではない。その割には木肌は生々しく白く、この門がここ数年で建てられたものだと知れる。
――……この戦乱の世にこれほど立派な門を立てるか……。ここはどこだ。
馬を数歩引かせて山門の全容を眺めていると、その内側からどやどやとした気配が出てきて思わず目をやる。するとさきほどの小坊主を先頭に、白布に腰衣の僧侶たちがやってくる。一番後ろには紫の褊衫に袈裟姿の者が一人。先ほど小坊主が和尚様と言ったこの寺の住持職だろうか。ともかくもひとりだけ違う格好から、この寺の中で一番の高位の僧であることは間違いないだろう。
その僧侶と目が合う。
「おや――これは、これは」
老年に達しそうな僧はそう言うと、ゆったりと小十郎の馬に近づいて、先に来ていた小坊主のすぐ横に立った。小坊主以外の僧たちは脇へ控えている。
「ご夫人を連れて戻られる途中か――お顔がやつれておられる。拙寺で休んでいかれなされ」
「いや……しかし……」
まず、蔦は妻ではない……そして彼女は疲れ果てて眠っているわけでもない。それを説明しなければならないが、うまく言葉にならない。標郷、秀直とはぐれ、霧に巻かれ、雀に誘われ、竹林にいざなわれ、今ここはどこなのか――思考がぼやけて事態が処理できないのだ。
すると、小十郎の戸惑いを別のものと勘違いしたか住持はおおと明るい声を出した。
「これは失礼した。奥方をお抱えのままでは下りることもできませんな。これ、お前たち、馬をお預かりして奥さまもお運びしなさい」
住持がそう言うと、弟子たち――なぜか小坊主はそこに加わらなかった――はわらわらと小十郎の馬を取り囲んだ。
そして一人が馬の轡をとり、残りが「さあこちらへ」と小十郎へ――蔦へと手を伸ばした。
白い衣から伸びる、武人のものと比べると頼りないと言わざるを得ない腕。それがいくつもゆらゆら揺れて、蔦と小十郎を誘っている。
それがまるで血の池地獄から手招きする死者の腕に見えて、小十郎は思わず馬を後退させた。轡を持っていた僧がたたらを踏む。
「大丈夫です!」
そう声をあげたのは、小坊主だった。よく通る声になぜか馬は怯えない。
和尚がすっと慈愛に満ちた目を小坊主に、それから小十郎にむける。
「大丈夫です、奥さまは。どうぞお任せください」
小坊主は優しく小十郎に語りかける。その言葉に小十郎は戸惑いつつも、手を差し伸べる僧侶たちに恐る恐る蔦を渡した。僧侶たちは一瞬、力なく落ちるように渡された蔦を受け止めるため沈んだが、すぐにすっと各々背筋を伸ばした。まるで重さを感じていないようである。
「それは――」
眠っているわけじゃない、と言いかけると、その重さで悟ったのか、それとも実は気付いていたのか、僧たちがすっと目礼した。
そして、彼らは蔦を恭しく山門の方へ運んでいく。住持の横を通りかかると、少し足を止めた。住持はそっと蔦の顔を覗き込み、静かに言った。
「観音堂へお連れしなさい」
僧たちが頷き、進む。小十郎が馬を下りれば、馬房も境内にあるのか、馬は手綱をひかれて山門の敷居をひょいと越えた。葬列のごとく次に小坊主が続いて、最後に住持が続く。そして、敷居を越えたところで小坊主と住持が足を止めた。
「おいでなさい」
住持が言い、小坊主が頷く。立ちつくしていた小十郎も石段を数段踏んで山門をくぐる。
山門をくぐれば、蔦を抱えた僧侶たちは少し左手にある建物へ向かっている。あれが観音堂か――そう思い、そちらへ踏み出しかけると、住持が静かに言った。
「庫裏へ――手当をいたします。奥さまは、懇ろに」
小十郎は足を止め、住持を見やった。彼は頷いて、傍らの小坊主を
「シュウユウ」
と呼んだ。
はい、と小坊主が応える。
「私はご夫人につき添おう――お前はこの方を庫裡にご案内して、手当をしなさい」
「はい。――こちらへ」
そう言って、小坊主は右手に見える本堂の方へ歩き出した。小十郎は観音堂へと消えた蔦を探し――背を向けた紫の住持の背が観音堂の階を上ったのを見て諦め、前を行く小坊主にのろのろと着いていった。
本堂の前を通り、右手に折れる――すると、庫裡へ続く道の入り口で小十郎は立ちつくした。
匂い立つような圧倒的な生の香り。煙るような緑の匂い。
視界に広がるは、古に女房たちが競ったとも聞く牛車の出し衣のように道へこぼれんばかりに落ちかかる白い花。
濃い緑に白が生える――庫裡へ続く道の両側に白萩が群生しているのだ。葉の強い緑が花の白さと交わり、時に濃く時に淡く落ちかかっている。道の両側に萩が植えられているというよりも、白萩の出し衣のたおやかな争いの間を人が抜けていくのだ――そう思わせる道が眼前に現れたのだ。
小十郎は息を吸い込んで、吐き出す。そして辺りに満ち満ちる香りがわずかばかりの萩の香を集めたものではなく、白萩そのものが身のすべてから放つ、植物独特の生の勢いであることに気付いた。
先ほどまで蔦という形の死を抱えていた小十郎は尻ごみする。ここはあまりに――あまりにも違う世界だ。
緑と白の競演。霧も靄もどこへ行ったか空は澄み切った淡い青で、踏み固められた庫裡への道はその大地の色で世界をより際立たせている。道の先にいる小坊主の黒い腰衣すら鮮やか過ぎて、畏ろしい。
「どうしましたか?」
道の先で、小坊主が少し大きな声を出した。
小十郎はひとつ息を吐き出して、白萩の間に身を進める。植物の生きる気配は今の彼には重すぎて、足の運びも遅くなる。小坊主はしばし、小十郎を待っていてくれた。
小坊主のところへ辿りつけば、彼は少し首をかしげて小十郎を見上げてきた。政宗よりはいくぶん低い背丈で、主君より年下だと推定する。しかしその背丈のころの政宗と比べれば、少年は体は幾分細い――食べるのは野菜に豆ばかりだからだろうか、と小十郎は思う。
「――すごい萩だな……しかも白い」
振り返りつつ小十郎は感心したというよりも、鮮やかな世界を受け入れるためにその言葉を発した。すると小坊主はにっこりと笑った。
「ええ、みんなで一生懸命お世話しているんです」
その笑みも小十郎には受け入れがたい。笑みもやはり生に属するものだ。
「こちらです」
小坊主が歩きだす。小十郎も遅れてついていく。ふと、その後ろ姿に覚えがあるようで、小十郎は声をかけた。
「……シュウユウ、と言ったか。どんな字を書く?」
「“秀”でる、に、英雄の“雄”です」
秀雄、と小十郎は漢字を思い浮かべながら呟いた。
やがて小坊主の秀雄は、立ち止った。――彼の視線の先に建物がある。庫裡だ、と気付いて小十郎も足を止め――ふと、その手前に小さな流れがあることに気付いた。
どこぞに池でもあるのだろうか。小川を模した人工の川だ。山門といい、白萩といい、この戦乱の世になんと贅沢な作りの庭だ――小十郎は呆れた。
さらにそこに小さな石造りの太鼓橋がかかっている。ともすれば、三歩ほどで渡れそうな橋である。
秀雄がそこへ足をかけ進む――遅れて小十郎もそこへ足を乗せかけた。
だが。
「お前はこの橋に乗ってはならないよ、小十郎」
寸でのところで突然名を呼ばれて、小十郎は思わずその言葉に従った。
声は秀雄のものだった。こちらに背中を向けたままの小坊主の言葉だ。
「――……?」
橋のちょうど真ん中で立ち止った小坊主の後姿に小十郎は眉を寄せる。
――なぜ、俺の名前を知っている?
ここに辿り着いてから今まで、そういえば名乗った記憶がない。
「なぜ……」
思ったことを問いかけると、小坊主が向こうを向いたまま肩をすくめた。
「ひどいなぁ、小十郎。僕を忘れてしまったの?」
ふとその南蛮じみた仕草をどこかで見た気がして、小十郎は目を見張る。そして、小坊主が振り返った。
「よく見て。僕を見たことはない?」
苦笑する柔らかな視線、きりりとした口もと。鼻もすっと伸びて、美形といっても過言ではない。
小十郎はその顔を知っていた。それは――小十郎がもっともこの世で尊重し、守り、従う人物の顔だった。しかし、よく見れば知ったその顔よりも小坊主は目が優しい。重なった面影は同一ではなく、とても「似ているだけ」なのだ。小坊主の目には重なった顔の持ち主がもつ、時に「過剰」とも称される自信を秘めたモノはなく、その色はどこまでも慈悲深い色をしている。
その優しい色に浮かんだのは、小坊主と面差しが重なった人物とは異なる名。
――輝宗様。
そしてもう一つ、別の名。
――お東様……大奥様。
小十郎にその存在を思い起こさせたのは、小坊主のきりりとした口もとだった。
しかし異なりつつも、その二人は小坊主と面差しが重なった顔の人物と無関係ではない。
「……あれ、実はいまいち似てないのかなぁ? じゃあ、仕方ないなぁ、一度だけだよ」
小坊主の顔に輝宗と義姫の面影――もはや国元に別々の意味でいない二人――を見つけて驚愕して答えられないでいる小十郎に、小坊主は彼が示唆したことをわからないと判断したか。秀雄は苦笑して、つるつるの頭にまるで髪に手櫛を入れるかのように指を添わせた。
坊主頭を手が滑り終えた一瞬後、やや茶色がかった髪がまたたく間に現れ、長い前髪が秀雄自身の目にかかった。小十郎は目を見開いた。秀雄は生えそろった髪にゆるゆると首を振り、今度こそは本当に髪に手櫛を差し入れて前髪を横合いへと流した。
髪を得た秀雄は――そう、小十郎の主政宗にそっくりだった。
輝宗から口元を、義姫から目を貰った政宗に。
政宗のすっと通った鼻は両親の美点をよく混ぜこんでいる――それは、政宗に見られる特徴で、今目の前では同じものを秀雄がもっている。
秀雄は目が輝宗、口もとは義姫、鼻筋は政宗なのだ。
だがそれらはひとつの、これまた政宗によく似た輪郭の中で綺麗に融合し、美男と呼ぶにふさわしい造形を作り上げていた。
秀雄と名乗った小坊主は政宗に似ているのだ――しかし政宗と最も違うのは、両眼が揃っており、その二つの瞳がしっかりと小十郎を見据えていることだ。
……小十郎は数年前まで、この顔の持ち主と、いや、この顔だがもっと幼かった人物とよく会っていた。城の、主たちのより私的な場所で。
「……小次郎様」
小十郎の口からまろびでた言葉に秀雄がわらった。
「シュウユウ、だよ、小十郎」
笑いつつ、言葉では秀雄は肯定も否定もしなかった。そして秀雄は体の前で手を振った。すると、秀雄は有髪のまま白布に腰衣姿から、先ほどの出会ったこの寺の住持と同じ紫の褊衫に袈裟姿の僧となった。
あまりのことに、小十郎は混乱した。
――これは、なんだ?
秀雄の坊主頭が一瞬で有髪となり、衣服が変貌を遂げたことだけではない。
小次郎は死んだはずなのだ。
秀雄が苦笑する。
「それでいいよ、小十郎。実際、そのひとはとうの昔に死んでるんだから。今は悪い夢を見ているんだ、お前は」
まるで全てを見透かしたかのように、秀雄は両眼を小十郎に据えていう。
……政宗によく似た顔立ちは、だが優しい瞳のそれは間違いなく伊達家次男の小次郎だ。少し背が伸び声が低くなってはいるが、かつて竺丸と呼ばれた優しい少年に違いなかった。兵法の書より、僧の随筆を選んだ御曹司。
小十郎は思わず腰の得物に手をかける。
「……松永の幻覚か? 魔王の眷族か?」
すると、秀雄と名乗る小次郎はますます苦笑した。
「似たようなものかもしれないけど、違うよ。悪い夢を見ているだけだよ、小十郎。ぼくはそのなかでは、良いとは言わないけれどマシなほう」
秀雄は警戒する小十郎に優しく、そして根気そう強くいった。それでも得物から手を離さずにいると、そこへ、チチ、と鳴き呼ばわりながら雀が二羽三度現れた。二羽は小十郎のまわりをくるくると飛び回る――そのあまりの近さに腰の得物から手を離すと、二羽は秀雄の元へ飛んだ。そして一羽は肩へ、一羽有髪の頭にとまる。
秀雄は楽しそうに笑う。すると雀はそれぞれその顔を見やってから、納得したようにそれぞれ視線を交わし合い、さっと再び飛び立った。秀雄の背中側、庫裡の方へ――しかし、小十郎が目を追えば、そこには先ほどまで見えていたはずの庫裡はなく、白い霧が広がるだけになっていた。
小十郎はぎょっとして辺りを見回した。
振り返れば白萩の道も霧の中へ掻き消えている。
目の前の川も太鼓橋の周りが姿を見せているだけで、上流も下流も霧の中へと掻き消えていた。
青い空すら消えている。
白い空間に、あるのは短い水の流れと、太鼓橋。そして、太鼓橋の上に、「シュウユウ」と名乗る小次郎だけだ。
「馬鹿な、ここは」
どこだ、という言葉より早く、秀雄が言う。
「夢だよ。……お前は本当は蔦を喪っていない。兄上は確かに今苦しんでおられるけど。ここはね、毘沙門天の化身が凍らせて、東の照が溶かした悪夢の残滓だよ」
「何を仰りたいのか、分からない」
しかし、と小十郎は言う。
「小次郎様、何をしておられる? こんなところで僧のまねごとを? 先ほどの住持は虎哉和尚ではありませんでしたが……」
伊達家の子息が出入りするのは虎哉和尚の資福寺のはずだ――小十郎は混乱したまま問う。
「いや……なにより、なぜ? あなた様はあの日――」
柱の表面が削られ、畳が全て入れ替わり、調度品すら真新しくなった、あの部屋――そうなった理由は小十郎がその部屋を訪れた前日、小次郎がそこで政宗の手にかかり、兄と同じ赤い血を部屋中にまき散らして死んだからではなかったか。傅役もろとも。
「そうだよ、だから、僕はそのヒトじゃない。秀雄だ。大悲願寺の秀雄、明王山宝仙寺の住持だ」
「何を仰る……?」
秀雄はまた、笑う。否定しつつ。小次郎そのものの顔で。
「僕は俗世から離れてしまったから、川の間に立てる。でも、お前は俗世に有る。お前が川を、とても大きな河を渡るのは、まだずいぶん先だよ。だから今はここを渡ってはいけないんだ。お前はただ残滓を払うために来たんだ――それは兄上のためでもある」
「政宗様の?」
「うん」
秀雄は頷き、政宗にそっくりな、しかしずっとやさしい顔で言う。
秀雄は自分を小次郎でないというのに、政宗を兄と呼ぶ。小十郎は困惑していた。
その困惑を知らないのか、あえて無視するのか、秀雄は言葉を続けた。
「小十郎、お前は自分で水底を蹴れるんだ。毘沙門天の化身と、東の日から助力を得たから。水底を蹴って、水から出て、雲を踏める。でも今、兄上は違う。憎悪の毒にとらわれて、水底で暴れてるんだ」
わかる? と、秀雄が首をかしげた。そのどこか幼げな仕草はまさしく、竺丸――小次郎を彷彿とさせるものであり、そのものであった。
しかし小十郎には懐かしさよりも、別な感覚が蘇る。その感覚が呼び起こしたのは、ひとつの名前。
「……石田三成」
「そう」
じんわりと、小十郎の脳内に小田原の景色が蘇る。
薄紫の一閃によって、地へと落とされた竜――政宗だ。
「お前も兄上も、今はまだ眠っている――けど、小十郎はもう蛟じゃない。ところが兄上は、何度も何度も夢の中で屈辱を繰り返して、竜になるところだったのに蛟に逆戻りしようとしてるんだ――父殺しの鬼子、弟殺しっていう評価まで甘んじて受け入れたのに、たかが凶王からの侮辱をやり過ごせないなんて、情けなくないかい?」
「……」
「僕は、情けないよ。せっかく、奥州を守るために死んだのに、兄上も国を守るために僕を殺したのに、兄上自身が奥州を追いこむなんて、まったく予想してなかったんだから」
「……政宗様は」
ぼんやりと思いだしてきた。辛くも小田原から国元に帰りついた後――徳川の軍勢が攻めよせた。それを撃退して――大地に墓標のごとく突き刺さった刀を抜いたところまでは覚えている。
「まだお目覚め出ないのか」
その後、どうなったのか――記憶がブッツリと途切れて、そして巻き戻っている。ありえない要素を盛り込みながら。
「目覚めてるよ――体はね。目が曇ったままなんだ」
「では、戻らねば」
「うん。やっぱり小十郎は話が早いや」
小十郎が言うと、秀雄は頷いた。
「戻らねば……。政宗様の側にあらねば」
「うん」
「ただ、わからない……ここはどこで、なんなのか? あなたは――どうしてここにいらっしゃる? そして、俺は――“彼女”を喪ったのか?」
「ここはね、悪夢の残滓だよ、小十郎。そして、悪夢の残滓が時を逆巻いて、お前から連理の枝、比翼の翼を奪ってみせたんだ。でもそれは、ただの夢だから。起らなかったけどありえた可能性を、お前に見せただけなんだ。お前のために、兄上のために。一歩間違えば、喪失が訪れたことを思い知らせるために。……いいや、実際にいくつも喪われた。それをふたたび刻み込むために、お前に見せたんだ。兄上には、まだ見えないから。だけど、お前の悪夢はお前が戻れば、すべて消える」
「要領を得ませんが……」
秀雄は困ったように笑う。よく、笑う。
「ごめんね、僕まだ、小坊主だからうまく説明できないんだ。でも、これだけは覚えていて。竜は水底で毒を吐く蛟になりかけている。お前は大丈夫だ。ここまでは悪夢、ここはただの境目。お前は連理の枝も比翼の翼も喪っていない――ここまではきっと覚えていて。
それと、これはきっと忘れてしまうけれど、お前が彼女を喪うことはないよ。彼女が川を渡るのは、お前が渡って干支が一回りする前後だから」
「……ではこれは悪夢と現実の境か」
「そう」
「……なぜそこに、あなたがいらっしゃる? しかも、あなたは最後に見たお姿より成長しておられる……小次郎様」
「僕は、俗世を離れたから。……それに、僕は秀雄だ。……幼名は、鶴若」
「いや、あなたは――」
幼名は竺丸、長じては小次郎政道――政宗様の弟君。
そう言うよりも先に、秀雄が言った。
「兄を頼む。戻れ、小十郎」
その言葉と同時に風が吹いて、小十郎は思わず目をつぶった――次に目を開けると、先ほどのこの寺の住持が太鼓橋の上にいた。小十郎は驚いた。
「戻れ、小十郎。お前は悪夢を振り払った。そして雲になれ。竜が踏む雲になるのだ」
有髪の小坊主はどこにもいない――いるのは、政宗と同じく眼力のある、しかし歳を重ねた高僧だ。堂々と小十郎の驚愕の視線を受け止めている。
――老いてますます似るのか。
小十郎がそう思った時、ざっと水音がした。みれば、太鼓橋の下の川がみるみるうちに水かさを増している。逃げなければ。しかし、足が動かない。
「大丈夫だ、お前は水底を蹴れる」
チチ、とまた鳴き声がして、僧の左右の肩にまたも雀がおりてきた。秀雄はそれぞれに笑いかける。そのうち一方が、チチ、と話しかけるように鳴いた。
「ああ――そうですね……うん。……竜だけじゃない。お前の連理の枝、比翼の翼のもとへお戻り」
秀雄が手を広げて、なにかを小十郎の側へ寄せる仕草をした。
するとそれに導かれたように、ザッとあふれ出る水の量が増した。膝まで飲まれ、水の勢いに小十郎は倒されそうになる。だが。
「小次郎様」
小十郎はぐっと手を伸ばした。手を伸ばした先で、歳を重ねた高僧の姿が揺らいで、また若い姿になる――紫の衣はそのままに、有髪の、政宗によく似た少年に。
秀雄、ではない、あれは小次郎だ――政宗が輝宗の次に得た家族。
伸ばす手は、届かない。秀雄は笑う。
「心配しなくていい――兄上は生まれた家族よりもっと良い家族を持つよ。あれで情深いのはお前も知ってるでしょう? ……私は秀雄。伊達小次郎政道は、もうどこにもいないよ」
踏ん張る足が流され始める。それでも小十郎は手を伸ばす。お連れしなければ、と思う。政宗のためだ。父を殺し母に去られ――せめて弟君だけでも。
そのとき、伸ばす手と逆の手が、不意にぐいと引かれた。
小十郎の鍛えた体が軽々と均衡を崩し――背中から水へ落ちてゆく。乱暴に引かれた手はしかし、武道の心得が感じられた。油断した相手をどう地へ一敗つけるかを知っている引き方だった。
倒れ込む小十郎のその視界に、その心得ある者の姿が映った。
「定郷――」
何故ここに、という問いを込めて呼べば、一の部下がニッと笑った。そして、タノミマシタヨ、と口を動かした。声は聞こえない。そしてひどくゆっくり景色が動いていく。
逆転しかける世界の中で、定郷は小十郎へ背を向け秀雄のいる橋のほうへまっすぐ進んでいく。そして、秀雄の前で深々と頭を下げた後――その横を抜けてそのまま霧のむこうへと歩んでいく。最敬礼を目で受けた秀雄の肩から雀たちが飛びたち、定郷の後を追う――小十郎に見えた水の上の景色はそこまでだった。
サブリと水に身が落ちて、気泡で視界がおおわれる。
透明な濁りに襲われて小十郎は目を閉じた。
|