泥中の蓮

其の弐


家に帰りたくなければ、後家の家に転がり込めばいい。飯も食えるし、他の欲すら満たせることがある。今日はそんな気分だったので、馴染みの後家のところに向かう。
一時はそのまま転がり込むことも考えたが、あまりにみじめなのでやめておいた。それはどうにもならなくなった時の手段である。あまりどうにもならなくはなりたくない。髪結いの亭主よりもそれはみっともないというものだ。
訪ねて行けば後家は小十郎の腫れた口元を見ても
「まあ喧嘩したのね」
と笑うだけで心配すらしない。飯を食えば傷に染みたので、味わうことはせずにかき込むだけにした。その間に放り出した手拭いに後家が気付いた。
「あら、猫の手拭い。かわいいわね、どうしたの」
「どうでもいいだろ」
「あらぁ、少し湿ってるわね。可愛い子に手当でもしてもらったの?」
くすくすと笑う後家の声が今日ばかりは耳障りだ。小十郎は後家の手から手拭いを奪い取った。
「あら、当たったのね。どんな子? 気になるわぁ」
「関係ないだろ」
脳裏に自分の怒鳴り声に怯えた少女の顔がよみがえった。伸びた男たちとそれを打ち倒したばかりの小十郎には怯えなかったくせに、と胸の中で悪態をつく。少女が荷物を抱えてから立ち上がるまでのわずかの間に見せた横顔の、眦に涙が浮いていたような気がして小十郎は苛立った。乱暴に石畳へと放りだした自分に何故優しくするのか。それをおもって苛立ちが増す。
そんな小十郎の心中を知ってか知らずか、後家がすり寄って来た。触れられた所がぬめりとしたようで、小十郎は思わず身を引いた。
「今日はつれないのねぇ」
「そんな気分じゃねぇ。――寝る」
喧嘩のあとは気分が高ぶり、そうなるはず。後家もそれを知っている。だがそんな気分にならず、小十郎は女を遠ざけた。眠る直前、真摯な顔で絞った手拭いを顔に当ててこようとした娘の顔ばかりが浮かんだ。



その数日後――さすがにすぐにあそこに戻る気はしなかった――、社に行けば懲りたのかチンピラも子どもたちもいなかった。今日は念のために木刀まで持ってきたというのに。数日前から胸によくわからないしこりがある。いらついて髪をかきむしり、境内を進む。
半ばまで来たところで、さい銭箱の向こうからぴょこんと黒い頭が出てきた。そしてそれがこちらを向く。小十郎はそれを認識すると、呆れた。
「お前な」
「……」
例の少女だ。小十郎は歩み寄りつつため息をつく。少女が見上げてくる。まっすぐな瞳だ。
「危ないっていうのがわからなかったのか。手拭いなら忘れてきたぞ」
後家の家にではなく、実家にである。返さなくていいというので、文机の上に猫が見えるようにして畳んでおいてある。だが少女は首を振った。
「手拭いはいいの」
真摯な顔で、少女がきいてくる。
「もう怪我は大丈夫?」
「――そんなヤワじゃねぇ」
少女が歩み寄ってきて、ひょいと小十郎の袖を遠慮なしにめくった。小十郎はギョッとしてその手を振り払う。だが少女は丸い目で真剣に見上げてきた。
「色、薄くなったね。よかった!」
「馬鹿かお前は。勝手に見るな」
「だって」
「もういい」
小十郎は言って社の濡れ縁にあがると胡坐をかいた。すると少女もその隣にちょこんと座る。
「……、なんなんだよ」
「あのね」
言って少女は懐を探った。
「よかった。崩れてない」
ほっとしながら言って取り出したのは、懐紙に包まれた何かである。眉を寄せる小十郎の前で少女はそれを開いて見せる。小さな手の上に大きな饅頭が二つのっている。
「あのね、特別に二つ貰って来たの。一緒に食べよう?」
饅頭を二つ持って家を抜け出してきたのか、一体どうやったのやら――小十郎は少し呆れた。いい所の娘であれば甘味など珍しくないかもしれないが、餡のぎっしり詰まった饅頭など小十郎はここしばらく食べていない。貰って来たというが、大変だっただろう。まして外に持ち出すなど家中の者は眉をひそめなかったか。それか、この娘が日頃良い子にしていて疑われなかったかのどちらかだ。
「仕方ねぇ、貰ってやる」
ぶっきらぼうにそう言って、饅頭を取り上げる前に娘の頭を撫でた。娘はちょっとびっくりした顔をしたが、すぐに大輪が咲いたような笑顔になった。
はじめて見た少女の笑顔に、小十郎は気をひかれ――つい自分も久々に笑ってしまった。



「――あれか」
それを、遠くから見つめる者が二人。
「なかなかイイ感じでしょう。アレなら別嬪になること間違いなしですぜ」
下卑た声を出したのは数日前小十郎に二度も負けたチンピラの一人だった。もう一人はきちんと着物を着こんではいるが、どこか派手で堅気ではないことを感じさせる。
「着ているものが少し上等なのが気になるが――最近取り締まりがうるさくてな。いい稼ぎになっていないから選んではいられんな。極上とはいかんが、上玉になるのは確かだな」
「何日か前からここいらをウロウロしてる娘でさぁ。聞いて回れば野郎になついてるとかで」
「それで、お前さんはあの野郎にひと泡吹かせてやりたいんだな」
するとチンピラはニィと笑った。
「可愛がってる娘っ子を女衒にとられればさすがにあいつも土下座するさぁ」
「まあ、された所で返してはやらんがね」
派手な男――女衒、女の売り買いを生業とする男もまた、下卑た笑いをした。



美味しそうに自分の横で饅頭を頬張る少女が小十郎は不思議だった。一度乱暴にしたし怒鳴ったというのになぜまた来たのか。しかも饅頭を持って。加えて少女はあれこれとどうでもいい話を小十郎にしている。少し前、この社の下に子猫を産んだ猫がいたこと、たまにチンピラがいたので母猫に餌をやるのが大変だったこと、やがて猫たちはいなくなってしまったこと、などなど。
饅頭の返礼代わりに黙って話を聞きその横顔を見ながら、なんで懐かれたのか、とまた思う。そしてそういえば怪我はどうした、と思ったがなんだか口にできずに身振り手振りを交えて話す少女の手のひらが綺麗になっていることを目だけで確認してため息をついた。
変な子だ、と思うしかない。
勝手に進む話に一段落がついたのか、少女は突然
「もう帰らなきゃ」
と言った。小十郎は思わず
「送って行こうか」
と言った。そんな自分に驚いたが、まんざら悪い気はしなかった。だが少女は首を横に振った。
「大丈夫だよ」
そう言って笑う少女に穏やかな心地になる。ぴょんと少女が社の濡れ縁をおりる。小十郎もおりれば不思議そうな顔をするので、
「そこまで送ってってやる」
と思わずぶっきらぼうに言う。すると少女は嬉しそうにした。境内をとことこ歩く少女に歩調を合わせて、鳥居を抜ける。しばらく行った所でまた少女が
「ここで大丈夫」
と言った。
「そうか」
言って小十郎はまた少女の頭を撫でた。嬉しそうに目を細める少女を眺めて、あのな、と言う。
「ここら辺はあぶねぇ所なんだ。もう一人で来るんじゃねえぞ。いいな?」
とたんに、少女が哀しげな顔をする。小十郎は苦笑した。
「お前、ホントはどっかいいところのお嬢さんだろ。俺なんかと一緒にいる所見たら親御さん、目ん玉どっかいっちまうぞ」
するとふるふると少女が頭を振る。
「母上はわからないけど、父上はびっくりしないよ。お兄さん優しいもの」
「あのなぁ……。ともかく、もう来るな」
言い聞かせるように言うと、少しのためらいを見せた後うん、と少女が言った。
「でもまた会える?」
「さあな。すれ違うくらいはあるかもな」
「そっか!」
すると少女はわずかに元気を取り戻したようだった。子どもらしい単純さに小十郎はまた苦笑する。
「じゃあ、またね!」
「……おう」
手を振って少女は駆けていく。それをしばらく見送って、小十郎が背を向けた時だった。
「きゃあ!!」
と幼い声がした。何事かと振り向けば、少女が大柄な男の小脇に抱えられて連れられて行く。
「なっ」
家中の者に連れられて行くにしては運ばれる形が妙だ。じたばたと少女が暴れているのも見える。それに男は小走りだ。小十郎は境内を慌てて戻り、木刀を引っ掴むと男の後を追った。
「待ちやがれ!」
言うと、男がちらりと振り返り、速度をあげた。その走りに、やはり、と思った小十郎も急いだ。
だが出遅れた分追いつくことができない。
男は町の外れの、家がまばらに並ぶ所に向かっていく。そこにねぐらがあるのか、だが並ぶ家のどれがそうなのか小十郎には見当もつかず、ただ追うしかない。
ふと開けた場所に出る――その時だった。
ざっと目の前に人が飛び出してきた。どけ、と言いかけて気付く。
「よう、三度めだな」
あのチンピラ達だ。小十郎は立ち止まる。
チンピラどもは今度は鉄を使った得物を手にしている。一応は学ぶようだ。小十郎にとってはどうでもいいことだが。
「今日こそは――」
チンピラどもの口上などに興味はない。小十郎は木刀を低く低く、構えた。
息を吐き、また吸い込む。雷神の招聘の仕方はわかっている。いつもは苛立つだけのこの能力。だが、今はこれを使うべき時だ。
バリバリと辺りがまた帯電する。
「また妙な真似を――」
チンピラは全てを言いきることができなかった。怒気を含んだ雷撃が放たれ、チンピラどもの持っている鉄を打ち、肉を焼いた。
煙を吐いて一斉に倒れた男どもを踏みつけて、小十郎は少女を抱えた男の後を追った。



暗い家の中にポイと投げ出されて少女は強か背中を打った。げほごほと息をしている間に顎を持ち上げられる。
「読み通りだ。化粧の仕方とか仕草とか覚えりゃあ極上に化けるかもしれねぇぞ」
少女は顎を持ち上げてきた女衒をギっと睨みつける。
「あなたなんか父上がやっつけてくれるわ!」
すると、女衒の周りを取り囲む仲間や用心棒たちが笑いだした。
「父上、だってよ。強がっちまって!」
だが女衒だけが眉をひそめた。
「お前、着ているモノもいいし言葉づかいもなかなかだな。……まずいところに手を出したんじゃないか、オレは」
そんな独り言を聞きながら少女は後ずさる。その時だった。
ドン、と音がして入口の戸が吹き飛び、外を見張らせていた用心棒が中へと倒れ込んできた。
部屋にいた者たちが一斉に色めき立つ。
衝撃で立ち上がった砂埃の向こうに息を切らして立っているのは年若い男一人だ。
それに気付いた男たちが笑いだす。
「吃驚させやがって。何しにきやがった」
「真剣は下げてねぇなぁ」
「……、嬢ちゃんをかえしな」
用心棒と戸を吹き飛ばした小十郎がそう言って部屋に踏み込んできた。女衒が立ち上がる。
「あのチンピラども、負けたのか。……お前ら、やれ」
用心棒たちが真剣やら鈍器を構え出す。
――チンピラと同じようにはいかねぇな。
小十郎も覚悟を決めて木刀を構える。バリ、と雷神が小十郎の周りにまとわりつき、前髪が目にかかる。だが気にしている暇はない。
チンピラとは違い、口上なしで用心棒は切り込んでくる。左に避ければ空いた半身に別な男が鈍器を落としてくる。飛び退って間合いを測る。
用心棒は一人、二人、三人。女衒とその仲間が二人。吹き飛ばした見張りは二人。だがこちらはピクリとも動かないので気にする必要はないだろう。
連携させてはならない。
小十郎はフーッと息を吐く。
刀を持った一人が再び切り込んでくる。木刀で真剣は幾度も受けられない。相手が刀を振り上げた隙、ガラ空きになった胴に飛び込む。木刀を逆さに順手に持ち、柄頭を突き上げる。男の顎が砕ける鈍い音がした。男はたたらを踏んで、そのまま仰向けに倒れた。
二人目が大鎚を振り上げてくる。それを避けた先で、別な男が刀を振り上げた。小十郎は一旦再び飛び退ると、ぐっと軸足に体重を乗せた。そしてあえて半身に隙を作る。男が刀を振り下ろす、それを合図に刀を振り下ろした拍子に男に出来た隙を逃さず、少し正面からずらして飛び上がると同時に男の後頭部に蹴りを喰らわせた。男は蹴りの勢いのまま地面へとめり込むように倒れ込んだ。小十郎が地面へ戻れば、ふたたび大鎚の男がそこを狙った。身構えるのが一瞬遅れた。小十郎は右の側面にまともに重い一撃をくらって吹き飛んだ。土壁に叩きつけられて、転がる。かはっと息を吐くと、口の中に鉄の味が広がった。息が苦しい。あばらが何本か持って行かれたかもしれない。
「お兄さん!」
少女の悲鳴のような声が聞こえて、顔をあげれば大鎚が振り上げられている。一瞬の判断で横に転がる。遅れた大鎚が先ほどまで小十郎がいた地面にめり込んだ。
「いやっ」
少女の声が聞こえた。見れば、女衒が少女を抱えあげている。仲間も逃げ出そうとしている。
「待て……ッ!」
「てめぇの相手は……こっちだ!」
再び大鎚が振り下ろされて小十郎はまた転がった。避けた先で上半身を起こす。そしてぐっと四肢に力を込めた。ギシリとあばらが軋む音が聞こえたが、気にしている暇はない。周りの動きがひどく遅くなる。四肢の力を一気に解き放ち床を押すように飛び出した。大鎚の男は得物が重くてそれに対処できない。勢いのまま回り込んだ小十郎は木刀を大鎚の男の後頭部に叩き込んだ。大鎚の男が武器をとり落とし、崩れ落ちる。
「なっ」
女衒と二人の仲間が声をあげた。
「馬鹿な、手練れだぞ!」
仲間二人が刀を抜いた。だが切っ先が震えている。
したたか右側面を打たれたせいで右手に力が入らない。しかし小十郎は利き手の左で木刀を持ち上げ低くいった。
「そいつをかえしな」
言うと、二人が飛びかかって来た。
小十郎は木刀を振り上げた。ひとつ、ふたつ、と木刀を振えば型もなっていない男たちは呻いて倒れる。
残されたのは女衒ひとりきり。
「もう一度言う。そいつをかえしな」
「……」
女衒は少女を抱えたまま笑った。小十郎は木刀を突き付けてそれを睨みつける。バリバリと再びあたりが帯電し始め、木刀に雷撃が絡み出す。それを見て、女衒が笑いをおさめた。
「欲に目が行くとロクなことにならないな。コイツの身なりが上等だと思った時に気付くべきだったか。お前みたいなのがいるとは思わなかったよ」
女衒は片手で少女を抑えたまま、懐に手を突っ込んだ。次の瞬間、そこにあったのは短銃である。
「……!」
「お前を撃つかな、それともコイツにしようか」
銃口が小十郎を狙った後、少女のこめかみに移動する。少女は声もあげずに身を縮ませた。つう、と一筋だけ涙がこぼれた。
「さっきあばらの二、三本持っていかれたんじゃないか。痛いだろ」
「テメェには関係ねぇ。そいつを放せ」
「放したらオレを無事に逃がしてくれるかい?」
嘲りを含んだ声で問われる。小十郎は答えず相変わらず木刀を突き付けたままだ。ぜえ、という小十郎の息遣いだけが響く。
動いたのは、女衒だった。唐突に少女を小十郎のほうへと放り出したのだ。背を押されて転がりそうになる少女に小十郎は思わず木刀の切っ先を下げてしまった。動きづらい右腕を伸ばす。少女を受け止めようと小十郎が息をつめた――その時だった。
パン、という乾いた音がした。
「――!」
女衒の短銃から放たれた弾が少女の長い黒髪を幾筋かさらった。パラリと落ちる黒髪に小十郎の頭が真っ白になる。右の胸に少女がぶつかるように倒れこんでくるが、痛みは感じなかった。
バリ、という雷撃の音がひときわ大きくなる。女衒が後ずさるのが見えた。右腕に少女を抱え込むと、ぐっと軸足を踏み込む。それからそのまま地を蹴った。木刀を突き出すのと同時に雷神が竜の形となって女衒を喰らおうと顎門を開いた――辺りが白く染まり、ドンと雷撃が落ちた。



気付いた時には小十郎は倒れ込んでいた。抜けた天井をぼうっと見上げていれば、小さな暖かいぬくもりがしがみついて、揺さぶってきた。
「お兄さんっ」
ぼろぼろと涙をこぼして少女が覗き込んでくる。
ああ、無事だったのか、と思う。
「揺するな。アバラ何本か持ってかれたんだ……いてえ」
声を出せばそれすらギシリと骨を苛んだようだった。少女があわてて手を放す。
ぼろぼろとこぼれてくる涙が温かいと思う。
「悪い、たぶん俺のせいだ」
途中であのチンピラどもが現れた。たぶん復讐のためにこの娘のことを女衒に告げたのだろう。そう考えれば合点がいく。
右胸の痛みに、急速に動いたた疲労、雷神を招聘した代償で体がうまく動かない。なんとか木刀を離した手を伸ばし、ぼろぼろと零れる少女の涙をぬぐってやる。途中触れた髪が幾筋か短くなっていることに気付いた。弾は誰にも当たっていなかったのだ。ほっと息をつく。
だが少女はそれには構わず、小十郎の言葉に少女はぶんぶんと首を振る。
「三十六計、意味わかった。――できなかった」
「――じゃあ今後気をつけろ」
言うと、少女は倒れ込む小十郎の左胸に身を寄せてきた。そのぬくもりに、息を吐き、髪を撫でる。俺が怖い目にあわせたのに、と思う。小十郎はなんとか身を起こし、少女を抱きしめた。小さな手が背中に回る。
「ごめんなさい」
「お前は悪くねぇ」
腕の中でわんわん泣く娘に、小十郎はともかくほっとした。

2010年10月9日初出
2010年10月10日改訂

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