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「妻成地駆三毛猫……!」
やはり何か自分は雷神の怒りを買ったのではないか。しかし思い当たる節がない、と再び遠雷の下で思う。
妻である蔦と出かけて夕立ちの気配がしたので、人気のない小屋の軒先を借りて雨宿りした時のことである。急に雷鳴が近くで響いたと思うと辺りが真っ白になった。
白く染まった視界が元に戻って、ふと傍らの気配が小さくなったことに
「びびったのか?」
と顔を向ければ妻の姿がない。
「蔦?」
と名を呼んで思わず辺りを見回すと
「にゃあ」
と言う声がした。見下ろせば地面に落ちた妻の着物の中で三毛猫が目を見開いているではないか。
「つ、蔦?」
戸惑いがちに声をかければ
「に、にゃー。なぁー?!」
と三毛猫が声をあげて飛び上がった。それからわたわたと着物を猫の手で不器用に身の近くに引き寄せた後、ゆらゆらと頭の後ろで揺れる長い尻尾に気付いてそれをくるくると追いかけだす。ひとりしきり尾を追った後がぶりとそれを己でかじってまた飛び上がる。
それから猫は腰を抜かしたようにへたり込んだ。小十郎は屈みこんでもう一度問う。
「蔦、なのか?」
すると三毛猫自身も戸惑うことがあるのかよろよろと立ちあがり、屈んだ小十郎の膝に躊躇しながらもきちんと前足を置き、己の体を見回した後
「……にゃあ」
と肯定の返事をよこした。小十郎は思わず額を手で押さえて唸った。
すらりとした美しい模様の三毛猫を懐に抱え、蔦の着物を蔵へ隠し、何食わぬ顔で表で帰りを告げる。出てきた女中頭が、夫婦が揃っていないのに首をかしげた。
「奥さまは……」
「矢内の家に立ち寄ったら、お姑殿の手伝いを頼まれて、しばらく……実家へ泊るそうだ」
とっさに出た嘘に小十郎はほっと息をついた。
だがにゃお、と懐の蔦が声をあげる。「完ぺきではないです」と言われているようで内心焦ったが、女中頭は特に疑わなかった。胸に手を当ててこちらもため息をついて見せる。
「よかった、てっきり旦那さまが愛想を尽かされたのかと」
「……」
「あらやだ、冗談ですよ」
それから女中頭は小十郎の抱える猫へ目をやった。じと、と睨まれて蔦が身を縮める。
「それにしても。この間子猫を拾って奥さまへ預けられたばかりだというのに、今度は大人の猫じゃないですか」
「……蔦は猫が好きだ、かまわんだろう」
「そりゃあ旦那さまはかまいませんでしょうけどねぇ。奥さまの手間が増えて増えて。まったく、知りませんよ」
誰がここの主だ、と小十郎は思ってため息をついた。懐の蔦が慰めるように鳴くので苦笑して撫でると「あら」と女中頭は言った。
「道理のわかっていそうな猫ですね。三毛だと雌ですから子猫の母御代わりになりますかねぇ。じゃあ旦那さま、お世話はよろしくお願いいたしますよ」
奥さまがお帰りになった際に御屋敷が荒れていてがっかりされてしまっては私の沽券にかかわります、と言って戻っていく女中頭に小十郎と猫の蔦は複雑なため息をついてから屋敷へ上がった。
小十郎の部屋へ入れば件の茶虎の子猫、トラが小十郎の文机の上で腹を天へ向けて眠っている。その緊張感のない姿を横目で見つつ小十郎は戸を引いて腰を下ろした。
すとん、と蔦が小十郎の懐を出てその真正面にきちんと座る。尻尾を足元に巻きつけている様子は常に居ずまい正しくする妻そのものであり、小十郎はまたため息をついた。
「どうしてこうなっちまったんだか」
「にゃあ」
「俺もそんなんだったか」
「にゃん」
蔦は律義ににゃあにゃあ言う。
それに小十郎は今日何度目かのため息をつく。すると、蔦が胡坐を組んだ小十郎の膝の上に乗ってきた。存外に軽い。思わずその頭をぐりぐりと撫でればぐるぐると蔦が喉を鳴らした。
「のんきだな、お前」
その様子に笑いながら言えば蔦はひげをぴくりとさせた。そして今度は顎を撫でてやると蔦は心地よさそうに目を細めてまた喉を鳴らした。
のんきな蔦にほだされて延々と猫を撫でていれば、そこへ視界の外からぴょんと何かが飛び込んできた。
茶虎の子猫トラが目を覚まして小十郎の膝へと飛び込んできたのだ。
そしてうーるると喉を鳴らして、トラにとっては突然現れた三毛猫に甘えるように体を擦りつけ始めた。蔦は驚いて後足で立ち上がり、均衡を崩して小十郎の膝から落ちかける。小十郎が慌てて受け止めれば、蔦は「なあ」と困ったように鳴いた。
トラは突然現れた雌の猫を母御の猫と勘違いしたらしい。必死に蔦に甘えようとする。蔦は始め戸惑って距離を置こうとしていたが、あまりの必死ぶりに哀れに思ったかそのうちされるがままになった。ただ、乳を探すしぐさをし始めるとさすがに前足でそれを押し返して香箱を組んだ。みぃみぃ鳴いて必死に蔦の腹を探ろうとするトラに眉をひそめて、小十郎は子猫の首の後ろをつかんで少し引き離す。が、トラはすぐに蔦の側に戻ってしまう。香箱を組む蔦、近づくトラ、引き離す小十郎――幾度か三者三様の攻防が続く。蔦は根気強く香箱を組みつづけ、トラは甘える声を出す。頑なに香箱を解かない猫になった妻にほっとしつつも、小十郎は思いついて念のために抱きあげる。そして胡坐を組んで脚で作った囲いの中に蔦を入れてしまえばトラは哀れな声を出しながら小十郎の膝のあたりをうろつくだけになった。
それを眺めつつ小十郎はこめかみを撫で、戦場以上に頭を回転させた。だが蔦をもとにもどす方法も何も思いつかないし、なぜそうなってしまったのか心当たりもない。智の小十郎が聞いてあきれる、と頭を抱えれば蔦がまた
「にゃあ」
と言った。それから蔦はするりと夫の作った保護の囲いを出て追いすがるトラをとりあえず置き去りにして文机に上がる。そして書きかけの文をトンと前足で示した。
訝しんで近づけば、トントントン、と蔦は文字を指していく。
「ご実家のお義兄さまに聞かれてはいかがですか」
指された文字を繋げてそう文章にし、三毛の蔦の顔を見やる。猫はまあるい目で見つめてくる。そういえば実家は神職であったと今更思い出し、妻の察しの良さに頭が下がった。雷神の御技ならば神職の兄が何か知っているかもしれないし、実家に何やら文献があるやもしれぬ。
「確かに、何か……手掛かりがあるかもしれねぇな」
だが、とりあえずその日はもう遅かったのでそれは明日以降にすることとした。
夕餉にがっつくトラの横で蔦は皿からこぼさないように飯を食べて顔を洗い、女中たちを感心させた。ミケと呼ばれ始めた妻に不安を抱きながら小十郎は蔦とついでに子猫を連れて床ののべてある部屋に引っ込んだ。布団はもちろん一組である。
布団の上で再び蔦と対峙して小十郎は言った。
「俺の時は一晩で戻ったが……。とりあえずそれに希望をたくして寝るか。そうすりゃあ、実家に行かなくてもいいしな」
「にゃあ」
夫婦でそう結論した後、小十郎が布団をめくろうとすると、何を勘違いをしたのかトラがそこへじゃれついてきた。
「こら」
手を甘噛みしてくる子猫に小十郎が眉を寄せ戸惑っていると、
「カッ」
と蔦が一喝した。
するとトラは吃驚してへたり込んだ。それからよろよろと蔦に歩み寄って、許してくれとばかりにみぃみぃ鳴く。それに、わかればよろしいのです、というように蔦はにゃあと鳴いて子猫を毛づくろいし始めた。早くも猫の所作が板に付き始めた妻に頭痛をさせつつ、小十郎は床についた。
翌朝、顔の横で猫団子を作る三毛猫と茶虎猫に小十郎はぐったりした。希望は打ち砕かれた。今日は実家へ行って文献を借りてくるしかない、と心に決めて城へ暇を求めに出かけた後――政宗には妙な心配をされた――久方ぶりに実家の治める神社への道をたどった。たどり着けば、神職を継いだ兄が境内をはき清めている。
「おや小十郎。お蔦さんが実家に戻ったと小耳に挟んだが大丈夫かい?」
小十郎を見つけた兄が言う。これだから神職と住職は耳が早くて困る、と小十郎が呻くと兄は笑った。
「なんだ、本当だったのか」
「兄上の考えているようなことではございません」
きっぱりとそれは告げておく。
それから何の用か、と尋ねてくる兄に猫又やら猫関係の文献と雷神関係の文献を貸していただきたい、というとさすがに眉をひそめられた。雷神さまはともかく物の怪はない、と窘められて肩を落とすが、兄はそれでもいくつか物の怪関係のもの見つけてを雷神の文献とともに見せてくれた。だが持ちかえるのはだめだと言う。
久々に入った社務所でそれらを検めても、それらしいものは見当たらなかった。武人のあの摩訶不思議な力の関係かい、としきりに尋ねてくる兄を適当にあしらいながらだったので少し精査に不安があるが、ともかくなかった。
今日は雲ひとつなく晴れていて、雷神のご機嫌もうかがえないな、と小十郎は帰り道に空を見上げて思った。
家に帰りつけば女中たちが
「ミケはトラの素晴らしい乳母です」
と言うのでめまいがした小十郎である。
厨にいるときは邪魔にならない所を選んでそこでじっとしており、トラが何かに悪戯しようとすれば叱りつける。女中たちにじゃれついて邪魔をしようとすれば首の後ろをくわえて運んでいく。遊びに興奮しすぎて爪を立て始めると、ぐっと首筋をあまがみして抑え込む。だが行儀よくしていれば全身を舐めて毛づくろいして褒めてやる。なぜか乳だけは吸わせないが、おかげでトラはずいぶん行儀が良くなったという。
小十郎はこれ以上蔦を猫にしておけぬ、と思った。一日で蔦は猫の乳母業が板に付きすぎである。しかし何の妙案も思いつかず、本当にトラが行儀よくなったことだけが確認され、また蔦がそれを誇らしそうにしているのを見てぐったりとし、結局夜になってしまった。猫が二匹で団子を作るのに半ば本気で嫉妬する。
――人が必死になっているってのに。
と恨み事まで胸に浮かんだ。
そして小十郎は夢を見た。とても悪い夢だ。姉、喜多に叱り飛ばされる夢である。恐ろしい。
姉曰く
「お前に甲斐性がないから蔦が実家に戻ってしまったではありませんか」
ということらしい。
違う、という反論は許されない。だが、ああ、これは夢だ、これが本当の事態になる前になんとかせねば、と夢の中で二重の苦悩を感じていると――ずしり、と胸に重みを感じた。
うーんと呻いて目を開ければ、障子に透ける陽光の中艶やかな黒髪が目に入った。「ん」と小十郎の胸の上で身じろぎしたのは、人の姿の蔦である。蔦が胸の上に乗っているので妙な夢を見たのだ、と気付くと同時にほっとする。
「蔦」
呼べば妻が目を開けた。澄んだ瞳と視線が重なる。
「小十郎さま?」
蔦が思わず出た言葉に口を押さえる。そして蔦は自らの口を押さえた己の手が人のものだと気付く。さらにその後自らの体を見回して妻は夫に言った。
「――もどりました!」
「ああ、戻ったな」
笑む蔦につられて笑えば蔦はほっとしたようだった。蔦の体が息使いに上下して――ふと小十郎は柔らかな膨らみが自分の胸板に押しつけられているのに気づいた。蔦は裸である。そして薄い寝間着ごしにも、なんとも温かい。
「ああ、よかった」
気付かない蔦はそのまま小十郎の身の上で身じろぎした。すり、と、夫の硬い脚の筋肉に妻のふっくらとした太ももがこすれる。蔦の柔らかな腹が小十郎の鍛えられた腹筋の上を動き、甘い刺激になる。さらりとした黒髪が胸へと落ちかかってくる。
「……」
「小十郎さま?」
ふと急に神妙な顔をした小十郎を不思議に思ったらしい蔦が顔を近づけてきた。次の瞬間、ぐ、と蔦の後頭部が抑え込まれた。顔がさらに近づいて蔦が驚いて目を見開く。小十郎は眉間にしわを寄せ、怒っているような顔をした後――意地の悪い笑みを浮かべた。
「心配させやがったんだ、わかってんだろうな?」
「え? きゃあ」
そしてあっという間に小十郎と蔦の上下が入れ替わる。小十郎に組み敷かれた蔦が悲鳴をあげた。
「トラがおります!」
――しばらく後、屋敷の主の寝所前の廊下でみいみい哀れに鳴く子猫のトラが発見された。見つけた若い女中は首をかしげ、子猫を拾い上げた時――主の寝所の中にいるはずの子猫が廊下にいる理由に気付いて真っ赤になって、慌てて子猫を抱えてその場を去った。
もちろん、いつの間にか奥さまが帰ってきていて、その不在の間旦那さまが非常に寂しがっていたことはすぐに屋敷中に知れ渡った。
が、小十郎にとって不幸だったのは、なぜかそれが姉の喜多にまで伝わっていたことである。政宗様にはどうかどうかご内密に、と平に願う弟に「まあ、仲よきことは美しきことです」と喜多は大変面白そうに笑ったという。さて、政宗が数日後に一の家臣をからかったかったかどうかは――また別な受難の話。
(了)
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