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Amoris vulnus idem sanat, qui facit.
記紀と照らし合わせれば、それは神功皇后の頃だという。
その日に南蛮の――、すでに滅びたという大国羅馬にてある人物が処刑されたという。
彼は南蛮の神の神官――あちらでは司祭、とかいうらしい――で、名をワレンチヌスと言ったらしい。政宗の南蛮綴りによればValentinus、正しい発音は「ウァレンティヌス、だ」とのことである。
羅馬国を治める“かえさる”――つまりはこちらで言う帝に逆らった罪で処刑されたというが、政宗から聞かされたその反逆の内容というのに小十郎は少々眉を寄せることとなった。
当時、羅馬国では下級兵士が家庭を持つことは禁じられていたと言う。羅馬の帝――ひどく長い名前で政宗以外は誰も彼も舌を噛んだ――は、兵が妻帯することにより戦で士気が下がることをひどく恐れたという。なんでも当時の羅馬国は今の日の本の群雄割拠の状態とほぼ同じか、よりひどいものであったらしい。
しかし人の世の色恋沙汰というのは、お上がいくら禁止しようとしても在り続けるものだ。
惹かれあっても一緒になることを許されぬ若い男女を憐れんだのが、司祭ウァレンティヌスであったという。
神官に相当する職にあったウァレンティヌスには祝言をとりしきることが許されていたのだ。ウァレンティヌスはその特権を利用して、若い男女の祝言をそっと隠れてとり行ってやったという。
だがこのウァレンティヌスの行為はやがて帝に伝わることとなった。もちろんその行為は帝の怒りを買い、ウァレンティヌスは投獄され処刑された、という。
だが下々の人々は彼の帝の怒りをおそれなかった優しさを忘れないために、彼の処刑された日を愛する者同士が互いに贈物をする日と定めたという。
それが二月の十四日のことであるという。
――まあ、羅馬の帝の気持ちもわからんでもない。
と、小十郎は自分の若いころを思い出して思う。小十郎もごく若いころは、所帯を持つということはそれ即ち戦場での恐れや臆病に繋がると思っていたからだ。
だが結局妻を迎えて子を持った小十郎には、ウァレンティヌスの行為もわからないわけではなかった。それに所帯を持つというのは一概に兵の士気を下げるものではないとも知っていた――これは夫であり父でもあるのと同時に軍師である小十郎には今やわかりきったことであった。兵というものは、守らなければならないものがあると自然、弱くなるよりもむしろ強くなるのだ。自分の背に親や子や妻がいると、それを守ろうと兵はがむしゃらに戦うのだ。
陣中にて没したというその羅馬の帝はそれを知らなかったのだろうか。あるいは――兵が守りたいと思わせる国を作れる帝でなかったか。そのどちらであるかは小十郎にはわからなかった。
――さて。
小十郎がそんな大昔の海の向こうの出来事に想いを馳せるのにはわけがあった。
昨年、南蛮文化を好む政宗がこのウァレンティヌスの日を奥州にも引き込んだのである。
政宗は異様に甘ったるい黒いもの――チョコレート、とかいう木の実から作った甘味である――で覆った、小麦と卵と砂糖を練って作ったケーキという菓子を自らで作り愛姫に贈った。それが下々にどう伝わったか、政宗を真似るものが続出したのである。ただしそれは男の間にはあまり広まらず――政宗のように粋に振舞うことができないと思ったのかもしれない――ウァレンティヌスの日の贈り物はむしろ若い女たちに歓迎された。日頃意中の者に表立って行動するのははしたないとされるのは女たちであるから、これを年に一度の好機ととらえたらしい。
そして恋人たちあるいは誰かに心を焦がす者は、政宗と愛姫に倣ってチョコレートを贈りあったり、一方的に贈りつけたり断られたりしたという。
そして今年は、各々個人でチョコレートを加工するのが大変面倒であることに目を付けた商人たちが、恥ずかしがる男たちより一日限り大胆になれる女たちに標的を絞って城下で一カ月ほど前から商売合戦を繰り広げている。
しかも商人たちは抜け目なく、「日頃お世話になっている方にも感謝の気持ちを伝えよう」とか垂れ幕を垂らして「義理チョコレート」なるものまで編み出した。おかげで城中にも城下にも異国由来の甘ったるい香りが溢れている。
しかも流れてきた噂によると「義理」でも「本命」でもなんらかの贈物を受け取った者は、一か月後に贈物の金銭にして三倍に当たる返礼をしなければならないと言う。
――やれやれ、平和なこった。
一ヶ月後の三倍返し、は南蛮にはない風習である。商人というのは知恵が回るよなぁ、と小十郎は珍しく呑気に考えた。
そして「ウァレンティヌス」の当日になった。
その朝、朝餉の時間になっても現れない息子に蔦が首をかしげて一旦部屋を出た。しばらくして戻ってきた蔦は困ったように頬に手を当てていた。
「なんだか今日は具合が悪いらしくて――熱はないんですが」
「重綱がか」
かつて左衛門と呼ばれた男の子は、通例より早く元服を迎えることが許され今は重綱と名乗っている。今年で12になる小十郎の息子は父と共に政宗に仕える身になっていた。
その重綱が具合が悪いというのだ。
小十郎は眉根を寄せた。
「風邪か何かが流行っているのか――そう言えば蔦、お前も最近具合が悪そうだな」
言うと、蔦はため息をついた。
「ええ――でも私のはなんだか風邪じゃないような気がするんです。たぶん疲れではないかと」
とはいえ、蔦の顔色は少し悪い。最近は気分が悪いのか胸をさすっていることもある。吐くほどではないが、気持ちが悪いらしい。確かに疲れがたまればそのようになることもあるか――と小十郎は考えて顎を撫でた。
「政宗様や城の者に風邪をうつしては何だ――今日は重綱は暇をもらうか」
「それがよろしいかと。あとでお粥を運んでおきますから、食べてしまいましょう」
蔦が言うので小十郎は膳の前で手を合わせた。夫が食事に手をつけたのを見て妻も椀を持ち上げた。そして蔦は味噌汁を取り上げて顔をしかめた。
「いやだ――この味噌、悪くなっていたなんて」
「……ん? 別にいつも通りだが……」
「え……」
妻の言葉に夫が言うと、蔦は困惑した顔をした。
「だって、変なにおいがいたします」
「……なにもしねぇが……」
小十郎は一口味噌汁を含んでみたが、妙な味はしない。蔦は困惑した顔で夫を見ていた。
出掛ける前に小十郎は重綱の部屋を覗いてみたが、息子はすっぽり頭まで布団をかぶっていた。さすがに小十郎も心配になって
「寒気がするのか」
と問うと息子が布団から顔を出した。そして、蔦と自分の良い所どりをして人に美形だと褒められる顔を奇妙にゆがめると
「寒くはないです」
と答えてきた。
その態度に少し妙なものを感じつつも、今日はお前には暇をもらえるように伝えておく、と言うと息子がほっと息をついた。そして風邪にしてはよく通る声で「いってらっしゃいませ」と言ったので小十郎は少々首をかしげた。
さて――異変が起こったのは小十郎が城内に一歩足を踏み入れた時である。
突然、小十郎の目の前に若い侍女――小十郎にとっては女童ともいえるほどの娘――が飛び込んできたのである。思わず立ち止まると、侍女は慌てて頭を下げた。
「お、おはようございます片倉さま」
「あ、ああ、おはよう」
小十郎が驚きつつ返すと侍女はきょろきょろとあたりを見回した。年のころは重綱と同じくらいか、と思っていると
「あの、重綱さまは今日ご一緒ではないのですか?」
とその娘が聞いてきた。小十郎は首をかしげつつ
「今日は来ない」
と短く答えると娘は目を大きくみはった。その瞳があまりにも哀しげだったので
「息子に何か用か? あれば伝えるが――」
となるべく優しく聞くと、娘は戸惑いつつそっと何やら小箱を取り出した。
「あの、これ――重綱さまに渡していただけますか」
「――」
可愛らしい紙に包まれたそれは、ここの所城下を騒がせているウァレンティヌスの日の贈物だと見るからにわかるものであった。しかも文らしきものまで添えてある。
――ああ、成程。
さすがに小十郎も察した。どうやらこの娘は重綱に贈物をしたかったらしい。それも、ただの贈りものではない。一瞬小十郎は天を仰いだ。
自分で届けたらどうだ、そのほうがいい――と言いかけて、小十郎はこの若い侍女が簡単に城を離れられないことに思い至った。
小十郎は苦笑して小箱を受け取った。
「確かに預かる」
小十郎がそう言うと、娘は頬を染めつつもほっとしたように笑った。
が、その後小十郎はやや困惑することになる。
その朝の娘と同じような侍女が次々小十郎の元を訪ねて重綱はどうした、と聞いてくるのである。それに今日は来ない、と答えると皆一様に落胆する。そして、娘たちはみな同じく小箱や包みを持っている。
息子のあまりの好かれぶりに、小十郎は内心で仰天していた。
中には根回しの如く小十郎にまで義理チョコレートを用意する者までいて、女童にしか見えない娘たちがすでに女であることに驚き呆れつつも感心することまであった。
小十郎は息子あての贈物を全部引き受けた。なにしろ息子あてであるのだから、父であっても断る権利はないのだ。預かるしかない。
途中、娘たちよりは年上の馴染みの侍女が
「お返しはいいですから、奥さまとどうぞ」
と言って義理チョコレートを置いていってくれることがあった。小十郎がめずらかなる甘味をこっそりと妻あての土産にしていることは公然の秘密のようなもので、どうも微笑ましく思われているらしい。やれやれ三倍返しは蔦と相談しなければなぁ、と思っていると、今度は姉の喜多が尋ねてきた。
喜多は弟の部屋に入ると、妙に大きな桐箱を小十郎に付きつけた。
小十郎が思わず受け取ってしまうと、姉はにっこりと笑って
「これで綱元と小十郎、併せて六倍です」
と言って弟に返品する暇を与えずに去っていった。
小十郎は茫然と両手に余る桐箱を見つめて、
――はて、俺と綱元殿と三倍が二つでいいのか、それとも合わせて六倍にしろということか。それにしても桐箱入りとは、こりゃ見当もつかねぇ。
と思い悩んだ。
だがそれよりも小十郎が困惑したのは、重綱かと思って話を聞いたら相手の本命は自分だった、という件であった。しかも五件ほど。
さすがにそれは受けとるわけにはいかず、
「俺には女房がいる」
ときっぱり言うと皆一様に瞳に涙をためたが引きさがってくれた。その様子になぜか胸が痛くなったが、事実なので仕方あるまい。というか困るだけである。
そんなこんなな来客をさばきながらしばらく居室にいると、成実が尋ねてきた。そして小十郎の居室の一角で山を作っている贈物を見て成実はほーっと息をついた。
「ずいぶんもらったねぇ、それ。義理とはいえお返しが大変じゃない?」
俺だってそんなに貰ってないよ、という成実に小十郎は何気なく答えた。
「ああ、それはほとんど重綱宛ての本命だ。ま、どうするかはアイツが決めることだな」
すると、成実の顔色が変わった。それから成実は口を開けたり閉じたりを繰り返した後
「重綱の裏切り者ーッ」
と言って小十郎の部屋を飛び出していった。小十郎は唖然としてそれを見送ったが、そういえば重綱と成実が謎の「嫡男ひとりっこシゲ同盟」なる友情を結んでいたことを思い出した。そして成実に対して、もういい年なんだから四の五の言うな、と思ったのも事実である。
そして風呂敷包みを背負って帰れば、迎えてくれた蔦が笑った。
「どうやら、逃げられないようですねぇ、せっかく仮病まで使ったのに」
「仮病?」
「重綱ですよ。様子が妙なので聞いてみたら仮病でした。後は部屋の前まで行かれればわかりますよ」
と蔦がころころと笑いながら言うので、小十郎は仮病ならば叱らねばならないと思いつつ自ら贈物をまとめて持って行ったやることにした。
そして重綱の部屋の前に辿り着いて――小十郎は絶句した。
部屋の前に、小十郎の腰の高さほどの贈物の山ができていたのだ。しかも裾野も結構広い。
ぽかんとしてそれを見ていると、内側から障子が開いて重綱が顔を出した。
それから息子はあっと衝撃を受けた顔をする。
「父上! なんでもらってきちゃったの!!」
小十郎はため息をついて、城から持ち帰った重綱への贈物を山の標高に無言で足した後、息子を部屋の中に押し込んだ。
息子は観念したかのように父の前できちんと正座をした。だが背筋がすっかり猫のように曲がっている。
その前に胡坐をかくと小十郎は腕を組んだ。
「あー……まず仮病だが」
どれから述べたものか迷って小十郎はまず仮病について叱ることにした。
「どうしてそんなもの使った」
「はい。……だって今日はとっても嫌な日だったからです」
「は?」
小十郎は思わず聞き返してしまった。すると息子はじんわりと目に涙をためて訴え始めた。
「だって去年は、たくさんの人に色んなものをもらったけど、僕はその誰もべつに好きじゃなかったから、母上の言う通り一人ずつにごめんなさいって言ったんだ。でもそしたら、みんな泣くんだよ。母上は、僕は悪いことしてない、むしろいいことをしたってずっとあとになったらわかる、って言ってくれたけど、なんだか色んなところがずきずきして、ヴァレンチヌスの日の後はすっごく嫌な思いをしたんだ」
「……」
「だから、今日はすっごく外に出たくなかったんです」
「……外に出なければ贈物は来ないと思ったのか」
「……はい」
息子は真剣に泣きそうな顔で言う。だがその様子に何故か小十郎はジワジワと笑いがこみあげてきて、しばらく俯いてそれと格闘したが、結局盛大に吹き出してしまった。
笑いながら息子を見れば、重綱はひどく衝撃を受けた顔をしていた。
「父上――僕、僕、本当に嫌だったのに! ひどい!」
「いや、すまん、悪い」
だがそれでもこらえられずに声を挙げて笑ってしまうと、息子は何が口惜しいのか哀しいのか床に突っ伏して泣き始めた。
笑いを収めつつそれを眺めた小十郎は、確かにこの年頃だとおなごは色気づいていた気がするがおのこはそうでもない、と言うことに思い至った。
可哀そうに重綱は元服したとはいえ性根がまだ子どもである。色恋よりも友達と遊んだり、稽古をしたりする方が大事なのだ。そして蔦に似たのか、心優しいところがある。それで去年痛めなくてもいい胸をたいそう痛めて、今年は仮病を使ったのだ。だがその子どもなりの配慮はすべて無に帰した。女の方が上手で強かだったのだ。
小十郎ははあ、とため息をついてポンと突っ伏す息子の頭を撫でた。
「しかし、仮病は悪いことだ。父も母も心配したんだ。お城には暇をもらったし」
その言葉にぐすぐずと泣きながら重綱が顔を挙げた。
「はい。ごめんなさい」
「あのなぁ、男だったら泣くんじゃねぇ。重綱はもう武士の子じゃなくて武士だろう?だったら猶更だ」
小十郎が言うと、重綱ははっとした顔をして涙をぬぐい、きちんと座りなおして背筋を伸ばした。
それを見て小十郎も胡坐から正座へと姿勢を変える。
「いいか。お前が本当に男で武士なら、事とはちゃんと向き合わなきゃならねぇ。好いた女がいないなら、きちんと断る。母上が言ったのは正しいことだ」
「はい、変な期待を持たせるのが一番悪いって母上に言われました」
小十郎はうんとそれに頷いた。
「もしお前が武士で一人前なら、きちんと事に対処することだ。何も全部直接断らなくていい。文の子には文で返事してもいいだろう。うやむやにするなよ、いいか」
「――はい」
やや肩を落としつつも重綱はしっかりと返事をした。それにしても、と小十郎が呟く。重綱が父を見た。
「お前、これはとても贅沢な悩みなんだぞ。成実なんか、お前のことが羨ましくて裏切り者って叫んでたぞ」
「えっ」
言われて重綱はオロオロと視線を動かした。重綱にとって成実は元服の時の烏帽子親であり、大事な兄貴分であるのだ。その人に裏切り者呼ばわりされて、重綱は明らかに動揺している。
「ど、どうしよう、僕……」
やはりこの年頃の男には、女よりも同性の友達や兄貴分が大切らしい。
「いや、気にするな。一種の冗談みたいなもんだ」
「ほんとうですか?」
「ああ、明日にはケロっとしてるさ」
重綱は半信半疑と言った感じで父を見ていた。そんな息子の髪をくしゃくしゃと撫でた後、小十郎は顔を引き締めていった。
「ところで、仮病のことは母上には謝ったのか」
「あ、まだです」
小十郎がため息をつくと、あっと息子がまた声を挙げた。
「母上、なんだか具合が悪いみたいです。お昼はあんまりめしあがらなくて、めしあがったと思ったらすぐに吐いてました。……どうしよう」
「――なんだと」
先ほどの蔦にその様子がなかったので小十郎はさっと青ざめた。重綱は重ねて言う。
「お医者さまを呼びにやったんですけど、しばらくしてお医者さまが母上の部屋から出てきたら、にこにこして大事ないって言って帰っちゃいました」
小十郎はその言葉に頷いて、息子に一言二言締めの言葉を投げてから妻の元に向かった。
「おい、蔦」
「あら、お説教は終わったんですか?」
奥の間にて針仕事をしている蔦を見つけると、小十郎はその前にどかりと座りこんだ。
「それよりお前、具合悪いそうじゃないか。大丈夫か」
言うと、蔦はそれに小首をかしげてスイと立ち上がった。それから納戸を開けて何やら取り出し、きちんと座り直すとそれを小十郎の前に置いた。
「はい、いつもありがとうございます」
「……」
綺麗な紙で包んだ小箱。どうやら例の贈物らしい。小十郎は話をそらされたことも相まって眉を寄せた。
「俺はこういう軟派なの好きじゃねぇ」
「……」
すると蔦は一瞬哀しそうな顔をして、ひょいと箱を取り上げた。
「それなら、仕方ありません。見なかったことにしてください。自分で食べますから」
「あ」
「“あ”?」
小箱を取り上げられて、思わず出た意味を為さない一言に小十郎は自分でギョッとした。だがくすくす蔦が笑うばかり。
それにしばしオロオロと視線をさまよわせた後、小十郎は片手を差し出した。
「……貰ってやる」
「素直に最初からそうおっしゃってください」
そう言って笑う蔦からやや乱暴に小箱を受け取ると、小十郎はため息をついた。
「何もあらたまって。……、俺は何も用意してねえぞ」
言うと、蔦が少し困ったように小首を傾げた。
「……いえ、小十郎さまにはすでにいただいておりますよ」
「……?」
蔦が自らの腹に触れた。
「重綱と――ここにもうひとり」
「――」
何を言われたかわからず、小十郎は妻をじっと見やった。そんな夫を見て蔦は笑う。
「重綱が兄になって、小十郎さまはもう一人のお子の父になりますよ」
穏やかな蔦の笑顔が幸せに満ちていて、小十郎は言葉に詰まった。
「――ほんとうか」
「嘘をついてどうするんです?」
笑う妻に、小十郎は何を言ったらいいかわからない。
二年ほど前――主夫妻にようやっと嫡子が誕生した。五郎八と名付けられたその子は姫君で、家臣たちは嫡男ではなかったことにいくらか落胆した。だがその五郎八姫に目通りがかなった際、蔦は姫の母である愛姫の次にその子を愛おしそうに見つめ、いつまでも抱いていたのだ。その光景が小十郎の目に焼きついている。
だが実は、小十郎はそのずっと前に気づいていたのだ。畑などに出た際、女の子が母親といると少しばかり蔦が羨ましそうに眺めていることに。
「左衛門は男の子で、いずれ手を離れてしまいます。お稽古が始まれば、小十郎さまの出番で私は引っ込まなければなりません。でも女の子だったら、お嫁に行くまではずっと一緒にいられますから」
蔦がそう言ったのはまだ重綱が左衛門だったころだ。
そんな蔦に子を与えてやりたいと思って幾度も交わったが――神無月の神々の合議では、子殺ししかけた父のもとに二人目はやらんということか、子ができることはなかったのだ。
ただ、蔦が一度だけ言ったことがある。
――左衛門を生む時に、私は胎を傷つけてしまいましたから……もうしわけありません。
深く悔いるような言葉に、そう仕向けたのは俺だと言いかけて、結局小十郎は何も言うことができなかった。
そして左衛門は重綱となり、さらに今年で12になってしまった。
それが今になって――どうしたことだ。
「――小十郎さま? ……喜んでいただけませんか?」
蔦が不安そうに夫を覗き込んだ。無理もない。蔦の目の前の男は、かつて主に嫡男がないから子を諦めてくれと言った男なのだ。未だ姫君だけの主夫婦を慮って何を言うか解らない、と蔦が不安になるのが手に取るようにわかった。
小十郎はそうっと蔦に手を伸ばした。
まず頬に触れ、そのまま後ろ髪に手を差し入れる。恐る恐るといった様子の小十郎の仕草に蔦は苦笑した。そして蔦はそのまま、ぽすりと夫の胸に飛び込んだ。小十郎はそんな妻を抱えるように抱きしめた。
「……喜んでる。ただ、なんて言ったらいいかわからねぇ」
やっと出た言葉はそれだった。蔦が腕の中で笑ったのがわかった。
「最近なんだか気持が悪かったのも、お味噌汁の匂いを変に感じたのもややがいたからみたいです」
小十郎は腕の中でそっと蔦を向き直らせて、自分の膝に座らせた。それから優しく後ろから抱き締め、首筋に顔をうずめる。
「女だといいな。それだとお前は寂しくない」
蔦が肩に乗る夫の頭を撫でた。それから言い聞かせるように言う。
「女の子でもお嫁に行ってしまえば寂しいですよ?」
「それはずっと先のことだろう?」
「ずっと先というのも生まれてしまえばあっという間です」
それから蔦はそっと小十郎の手を取ると、腹に触れさせた。小十郎も恐る恐る、だが重綱の時よりは落ち着いてそこを撫でた。
「でもなんだか、次も男の子の気がします」
「男か――やれやれ、家の中が甘ったるい匂いで満杯になるのは勘弁だな」
二人続けて異様にモテる子が生まれても困る、と思って小十郎が言うと蔦がくすくす笑った。
「でも、小十郎さまだって貰っていらっしゃったじゃありませんか」
「ああ、あれか。半分お前あてみたいなもんだ。奥さまとどうぞ、だとさ。……お返しはお前も考えてくれよ」
「はい、かしこまりました」
それからふと考えて、小十郎はうなった。その様子に蔦が肩越しに振り返ってきたので目があってしまった。
「どうかしましたか」
「――、姉上からもなんだか大仰なものをいただいたんだが……」
「はいはい、おまかせくださいませ」
そこで小十郎はため息をついた。それが喜多へのお返しが何とかなりそうだという安堵のため息ではないことに、妻は気づいた。すでに夫婦として過ごした年月は両手の指より多いからだろう。
「どうかいたしました?」
「いや……なんでもない」
「気になりますから、よろしければ教えていただきたいんですけれど」
優しく、だがどこか強情さを感じさせる口調で言う妻に、嫁いできた時とは少し変わったなと苦笑しつつ小十郎は首を振った。
「なんでもない」
「じゃあ、あててみましょうか? 本命の贈物、いくつかいただいてしまったんじゃありませんか?」
そう言う蔦の声に小十郎は目を見開いて一番近しい女の顔を見てしまった。蔦は小首をかしげて、少し複雑な笑みを見せた。その顔に深くまたため息をついて、そっと妻を抱き直す。
「少し外れだ。貰ったってどうしようもねぇ、全部返した」
「まあ」
その返答に蔦はほっとしたようだった。それに苦笑して、小十郎は言う。
「情ってやつか、こっちが悪くねぇのになんかあれは来るもんがあるな。重綱が仮病使いたくなった気持ちもまあ、それを思えばわからんでもないか」
腕の中でまた蔦が首をかしげた。
「……どうした?」
「いえ、なんだか私も複雑な気分になってきました。小娘だった頃を思い出すと、なんだかその子たちの気持ちもわかる気もしますし、だけど小十郎さまが断ってくださったのが嬉しいような」
その言葉に小十郎は眉を寄せつつ考えてから、言った。
「……嬉しいでいいんじゃねぇか。お前は俺の女房だし、俺はお前の旦那だ。そこに妙なものを求められてもな。――ここにもう一人いることもわかったことだしな」
小十郎はそっと蔦の腹を撫でた。蔦がそんな小十郎に頬をすりよせて来た。
その妻のぬくもりに、小十郎はため息をついた。
「――やはり俺は、お前に貰ってばかりだ。この子も重綱も――な」
そしてこの俺に付き合ってくれる蔦自身も、と内心で付け加えて小十郎はまたそっと蔦を抱きしめたのだった。
十月十日ほど後、生まれた子は蔦が言った通り男の子であった。重綱は遅れてきた弟に大変喜んだという。
小十郎が少し複雑そうに
「女の子じゃなかったな」
というと蔦は
「健やかであればいいのですよ」
と夫をたしなめたという。
男の子は後に、行綱、と名乗ることになる。それから二年ほど置いて、片倉家は女の子も授かることになるのだが――それはまた別の話としよう。
(了)
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