雪解け


“ソレ”が夫の主君伊達政宗、ひいてはその正妻愛姫に露見していると蔦が知ったのは、政宗の奥州制圧のための遠征が決まった頃だった。
その事実に蔦は青ざめた。ひた隠しにしてきたことだと思っていた。そして、それは成ったと思っていた。
左衛門を腹に抱えて川に流されようとしたあの日――愛姫とその侍女で義姉の喜多に夫の願いを打ち明けてしまうことになったあの時、蔦は“ソレ”をうまく隠したつもりだった。
“ソレ”とは夫が子を諦めてくれといった理由のうちのひとつ、主君夫妻に子がない、ということであった。
蔦は心配する主君の妻と義姉を前に、小十郎が子を諦めてくれと言った理由をただひたすらに、亡くなった人への申し訳なさを感じながら、縁を結んでくださった大殿や夫に目をかけていただいた遠藤殿が亡くなったこの時期に慶事は許されませぬ、とだけ重ねて言った。
だが隠していた“ソレ”は成実に見抜かれ、政宗と愛姫の前に晒されたという。
主君夫妻に子がないから、子を諦めろ、などと――無礼極まりない。
確かに、政宗は小十郎より十若く、愛姫はもう二つ若い。だが、それは武家の妻にとってなんの理由にもならない。妻の一番の仕事は、輿入れしたら一日も早く嫡男をもうけ御家を安定させることなのだ。そして愛姫は輿入れから、すでに片手と少しの年月を嫁ぎ先で過ごしている。だか懐妊の兆候が見られたことはない。
小十郎の言った理由は侮辱ととられても仕方のないことなのだ。だからこそ、夫のため、主君の妻のため、蔦は隠した――隠して、どこぞへと持っていくつもりだった。
だがそれがすでに出来ないことだと蔦は事実を突き付けられ、迷い――そして筆を執った。愛姫宛てに文を書こう、と思ったのだ。
左衛門が眠る間、机に向かい、幾日も悩んだ。小十郎が遠征の準備のため、城に詰めていて戻らないのが幸いだった。紙をいくつも使い、墨をすり減らし、幾度も書いて、蔦は悩んだ。
一度
『死んでお詫びを』
などと書いて筆を止めた。
助けられた命をまた投げ出すとは愚かの極みである。蔦はすぐにその文章を塗りつぶした。何事も腹を切ればいい、と武士らしいがどこか妙な覚悟をしている夫の悪い癖が伝染してしまったのかとため息をつく。
やがて蔦は眠る左衛門の顔を眺めながら、素直に己の気持ちを書くことに決めた。
夫の無礼と、その無礼を是とし愚かにも腹に宿す左衛門ごと命を断とうとした己の行為の謝っても謝りきれない謝罪。
だがそれでも夫を――小十郎を憎めず、慕う己がいること。
愚かな父と母のもとへ、左衛門が五体満足で生まれてきてくれたことへの感謝。
政宗と愛姫の寛大さへの感謝してもしきれぬ感謝。
文は乱れて、うまくまとまらなかったが、それ以上のものは蔦には書けそうになかった。せめて書体だけでも読みやすく、と努める。やがて出来上がった文を丁寧に畳み、蔦は下男へ託した。下男は城、しかも奥方様への文だと聞いていくらか緊張したようだった。
その下男と入れ違いに女中がやってきて、告げた。
「お父様とお母様がおいでですよ」
言われて顔をそちらに向ければ、実父の重定が妻である蔦の母を連れてやってくる所だった。
「父上、母上」
嫁にやった娘が立ち上がろうとすると、父は笑ってそれを制した。
「そのままでいい。左衛門の顔を見にお邪魔したのだ」
「片倉殿もお留守とのことですし」
にこやかに言った父の言葉に続いた母の言葉には、どこかトゲがあった。初宮参りの帰りに実家に立ち寄った際、母も小十郎を許してくれたものと思っていたが、やはりそうはいかなかったらしいと蔦は肩を落とす。重定はそんな妻に少し困ったような顔をした。
母は眠る左衛門の側にさっと歩み寄り、膝を折る。にっこりと孫を眺めた後、ふと顔を曇らせた。
「こんな可愛い子を、諦めろなど」
「やめないか」
重定が言うと、蔦の母は恨みがましい目で夫を見上げた。蔦もそんな母を見て言う。
「私からもお願い申し上げます、母上。蔦は小十郎さまのことがどうしても憎めませぬ」
「蔦……」
「むしろ、前にもましてお慕いする気持ちが強くなりました」
母は哀しげな視線を娘に向ける。蔦は背筋をしゃんと伸ばし、その視線をしっかりと受け止めた。だが母も負けない。
「嫌になったなら、いつでも左衛門と一緒に戻ってくるのですよ」
蔦はその言葉にゆっくりと首を横に振った。母が嘆息する。
「ですが、母上の想い――蔦は承知しております。母上と父上への感謝は、左衛門が生まれてから思い知るばかり」
蔦が指をついて深く頭を下げて言うと、重定は優しく笑って
「そうか。お前に三つ指をつかれたのなど、祝言以来だな」
と言い、それでも納得しかねる顔をする妻の傍らに座ると
「もうそれ以上言うな」
とだけ言った。やがて左衛門が目を覚まし、母方の祖父母を見つけて吃驚した顔をした。
きょとんとする孫息子を祖母が抱きあげる。
「ばあばとじいじですよ、左衛門」
「あー……う?」
泣きださない孫に重定がからから笑う。そして妻の手から孫を奪い、ほれほれ、と優しく体を揺らす。左衛門がきゃっきゃっと笑った。
蔦は微笑む。
「小十郎さまがそうなさるととても喜ぶのです」
「片倉殿が! はは、子守りとは縁遠そうな御仁に見えるが――いやはや」
「最近では抱くのも上手になられて。でも――戦があると左衛門が父を忘れてしまうのではないかと心配されておられました」
その言葉に、蔦の母は何か言いたげな顔をしたが重定が視線だけを動かして黙らせる。しばらく祖父と祖母は孫に夢中になっていたが、不意にふあ、と欠伸をした娘であり母である蔦の様子に気付いた。
「疲れているの?」
気遣わしげな母の声に蔦は苦笑する。
「最近は夜泣きもするので。……小十郎さまが城にお詰めになる前は、一緒に面倒を見ていただいたのですが、一人ではつらくて」
素直に言う娘に父と母は顔を見合わせた。それから重定が左衛門を抱えたままがひょいと立ちあがった。突然高くなった景色に左衛門が目を白黒させる。
「どれ、左衛門と散歩でもしてこよう。その間、お前は少し休みなさい」
「でも――」
「いいから。じいじとばあばに任せなさい」
父に言われて、母に微笑まれて、蔦は娘時代のように苦笑した。
「はい、わかりました」



蔦のもとを重定夫妻が訪れた同じ日の午前には奥州制圧のための出陣の日が三日後と決まり、小十郎は一旦下城することとなった。そのまま城に詰めると言い張る右目に、政宗は呆れたように言った。
「家族居るんだからさっさと帰れ。家族serviceはしとくもんだぜ」
「さぁびす」の意味は測りかねたが、確かにしばらく蔦の顔も見ていないし左衛門の様子も気になる。それに出陣前に妻と子の顔を見ていきたい、という常人らしい欲求が胸の中にあるのに気付いて、小十郎は素直にそれに従った。
屋敷に帰りつけば、女中が出てきて
「奥さまはお休みになられています」
と言った。そして続けて
「左衛門さまは、お舅さまとお姑さまとお散歩に」
と言う。小十郎は目を見開いた。
「矢内殿と奥さまが?」
「はい、左衛門さまにお会いに来られて」
「そうか」
後で挨拶をせねば――そう思って屋敷に上がり、蔦の休む部屋を目指した。
辿り着けば、蔦は床を延べずにその場に羽織をかけて横になっているだけだった。手をまくら代わりにしている所を見れば、あまり深く眠らないようにとの配慮だということが察せられた。小十郎はため息をついて、その横へ座る。体が痛くないのか、と少し呆れる。手はしびれないのか――ふとそう思って、ころりとそこへ横になる。そして片手で優しく蔦の頭を持ち上げて、もう片方で蔦の小さな手を頭の下から解放してやり、その代わりにそこへそのままその腕を入れる。腕枕、というやつだ。少しでも蔦が楽になれば、と思ってやったことだが、蔦が瞼を震わせて目を開けた。
「……悪い、起こす気じゃなかったんだが」
「いえ……お帰りなさいませ」
身を起こそうとする蔦を制して、小十郎は言う。
「いい。このままで」
蔦は逆らわず、小十郎の腕に頬ずりした。小十郎はもう一方の手で蔦の艶やかな黒髪を撫でる。
「……三日後に出立する」
蔦が目を見開いた。そんな蔦を見つめながら、小十郎は言う。
「留守を頼む」
「はい」
蔦の返答にはいつも迷いがない。だからこそいつも安心して出ていける。小十郎はこの妻のありがたさをまた思い知る。そう思っていると、蔦の瞳がふと揺れた。
「あの」
言い淀む妻に目だけで促せば、蔦は先を言った。
「ひとつだけお願いが……、ぎゅっとしていただいても、いいですか」
少し恥ずかしげに、だが真摯に言った蔦はそっと身を寄せてきた。察して小十郎は髪を撫でていた手を妻の背に回す。すると、蔦の手が背中にそっと添うのがわかった。
互いの背に腕を回せば抱いているのか、抱かれているのかわからなくなる。
戦に出れば遠くなるぬくもりを間近に感じて、小十郎は目を瞑った。
蔦は何も言わない。小十郎は愛しい女の髪に顔をうずめ、忘れないようにとその香りを吸い込んだ。


散歩に出た蔦の父母はそのころ、屋敷から少し離れた静かな場所を歩いていた。夫の重定から孫の左衛門を受け取り、辺りを見せながら歩く重定の妻がふとぽつりと言った。
「左衛門を矢内の家に連れて帰りましょうか」
「……?」
重定が訝しげな顔をすると、祖母であり妻であり、また母である女が言う。
「左衛門を連れていけば、家に蔦が戻ってまいります。そうすれば、片倉の家からあの子を引き離すことができます」
「……お前ね。蔦が納得するとは思えないよ」
「だって、あの男。なんであなたはそんなに冷静なんです」
怒りを見せ始めた祖母に左衛門が不安そうな顔をした。
「ほら、左衛門が嫌がってるぞ」
言うと、妻はあわてて孫をあやした。妻に抱かれる孫の頭を撫でて、言う。
「蔦は全部受け入れている。もう嫁にやった娘だ。帰ってきたいと言ったわけじゃない。私らに出番はないよ。諦めなさい。あの子は意外に頑固だ」
「――頑固なのは知っておりますよ、あなたよりもよく」
はあ、と重定の妻がため息をついた。
「出世頭だからといって、見合いさせるんじゃありませんでしたよ。大殿の勧めとはいえ」
重定は苦笑するしかない。
「蔦も片倉殿もそんなに惹かれあってるようには見えなかったんだがね――男女の仲というのは未だにわからん。そうだろ?」
言うと重定の妻は、はあ、とまたわざとらしくため息をついた。
しばらく歩いた後、歳を重ねた夫婦がまだ若い娘夫婦の屋敷に孫を抱えて戻れば、意外な光景を目にすることとなった。
一枚の羽織の下で、若い夫婦が互いの体に腕をまわし眠っているのだ。寄り添って転寝するその姿は、若い二人を少し幼くしているようにも思えた。
穏やかな光景だったが、嫁にやったとはいえ娘の父は一瞬狼狽し、母の方は目を見開いた。
しかし祖母の腕の中で孫が仲の良い父と母を見つけて喜んで、祖父母の苦笑を誘った。
「――だがしかし、お前もこれで諦めがついたろう」
重定に言われて、蔦の母はため息をついた。
「蔦が片倉殿を好いているのはよぅくわかりました。……片倉殿も、蔦に腕なんか貸して。……仕方ありませんね」
祖母の腕の中で、孫がひときわ嬉しそうに笑った。



それから三日後、政宗の率いる遠征隊が旅立った。小十郎はもちろん軍師として若い主君のすぐ後を行く。それを蔦は左衛門を抱えて遠くから見送る。屋敷に戻れば、文が届いております、と女中頭が言った。
受けとれば、それは政宗の妻愛姫からのものであった。
人払いをして戸を閉め、左衛門だけを部屋に残し蔦は文を開けた。季節のあいさつに続いて、本文が現れる。


『お文を頂戴いたしました。蔦、ありがとう。
 アレをわたくしが知っているということは内緒にするつもりだったのですけれど、秘密というものはどこからか漏れてしまうのでしょうか。
 小十郎殿の無礼と、蔦がそれを咎めなかったということ、わたくしはもう忘れることにいたしましたよ。もちろん、当初は思う所もありましたが、蔦が助かり左衛門も無事であったことが一番だと思いましたので。咎めなかった、という件も夫からあのようなことを言われれば頭が真っ白になってしまうだろうこと、察するにあまりあります。だからどうか、気にしないでください。
 実は蔦と左衛門が顔を見せに来てくれる少し前、喜多はおりませんでしたが、小十郎殿がわたくしと政宗さまに改めて無礼を詫びにいらっしゃいました。政宗さまはもう何もおっしゃいませんでしたので、わたくしがひとつだけ質問させていただきました。
「蔦がいなくなる可能性をお考えでしたか」
 と。小十郎殿はしばらく頭を下げたまま、黙っておられました。そして少し震えた声でおっしゃいました。
「全く考えておりませんでした。蔦を喪うなどただの一度も考えたことがありませんでした」
 と。それを聞いて、わたくしのなかにまだ残っていた「思う所」がひょいとどうでもよくなってしまいました。
 おそらく、小十郎殿は政宗さまやわたくしに逆に無礼を働くとか、蔦を追いつめてしまうとか、左衛門を殺してしまうとか、そんなに深く考えていらっしゃらなかったのだと思います。わたくしはその言葉を聞いて、それを確信し、ちょっと呆れてしまいました。
 男のひとというのは、どこかしら女を呆れさせるものをもっているのかもしれませんね。わたくしは政宗さまにまだそういうところを発見していないような気がしますが、いつかため息をつくかもしれません。
 蔦はそういう意味でも、大変な所に嫁がされてしまったのだなぁ、と思ってしまいました。ごめんなさい。だけど、蔦が小十郎殿を好きだ、と言うのでわたくしはそれでいいと思います。小十郎殿が蔦を大切に思っていることは、震えた声でよくわかりました。きっともうこんな無体はなさらないと思います。それに、またそんなことをしたら喜多が薙刀で叩き切ると言っています。だから、きっと大丈夫です。
 蔦、わたくしは蔦が無事で、小十郎殿が反省していて、左衛門が元気であるならそれでいいのです。政宗さまも同じ思いです。


 蔦、どうか体を大切にしてください。左衛門のためにも、もちろん小十郎殿のためにも。それがひいては政宗さまの御為になります。もし何かあれば愛に言ってください。いつか、蔦と姉妹のようになると言いましたね。妹だと思って、辛いこと、楽しいことをどうぞお話になってくださいませ。


片倉小十郎景綱殿が妻蔦殿へ めご』


蔦は読み終えて、それを胸に押し付け目を閉じた。
愛姫がいにしえの蝦夷討伐の将軍の血を引く身であることを思う。蝦夷と呼ばれかつてこの地に跋扈していた朝敵を捕えたというその武人は、お上に対して降伏したその長二人の助命を願い出たという――それは叶うことがなかったが。愛姫は確かにその血を引くのだ、と蔦は思い知らされる。
そしてまた蔦は思う。愛姫の郷里には見事な滝桜があるという。それはしだれ桜で、風に枝をそよがせつつも、幹は太く、根は大きくしっかりと地をつかんでいる、と聞く。蔦はその桜を見たことはない。今後見るかもわからない――だが蔦は文の遠景に、その桜を見る思いであった。
ふと気付けば、左衛門が母の傍らに這いずってきて、不思議そうに見上げていた。
蔦はいつの間にか零れていた涙をぬぐうと、文を大切に置いて息子を抱きあげた。
「左衛門、愚かな父と母でありますが、母の願いを聞いてくれますか」
左衛門は指をくわえつつも、まっすぐに母を見た。
「お前は片倉の名を背負って、伊達家のために生きるのです。殿と奥方さまがお前を生かしてくださいました。父と母ではありません。この恩、父と母だけでは返せません――お前は、伊達のために生きるのです」
左衛門はじいっと母を見つめていた。母の言葉がわかったかはわからないが、母に向かって笑ってみせると
「あい」
と最近覚えたばかりの返事をしてみせた。蔦は息子を抱きしめ、泣き笑いのまま頬ずりした。



――ちなみに、愛姫からの手紙には『追伸』があった。
『政宗さまが戦場におられるのに、呑気なことですが、喜多に頼んで片倉の屋敷にお邪魔させていただこうと思います。伊達に嫁いでから、あまり城を出たことがありませんので、外を見てみたいとも思うのです。政宗さまと小十郎殿、それと皆さまが守るひとびとを見たいと思います。
 蔦、その時は左衛門と喜多と一緒に散歩をいたしましょう。約束よ。せっかく春なんですもの。蔦は甘味が好きだと小十郎殿がおっしゃっていたので、蔦の一番好きな甘味所に行けたら愛はうれしいです。
 それと、このお文は見つかると怒られてしまいそうだから、政宗さまを見習って即火中、と記しておきますね』

(了)

2010年10月13日初出
2010年10月17日改訂

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