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氷解
其の弐
やがて子が生まれ、左衛門と名付けられ、初宮参りも済ませる頃になると蔦は少しずつ働き者の本性を取り戻していった。
小十郎が城仕えに戻るころには成実の怒りもすっかりとれて、
「ねぇ、左衛門見せてよ。愛姫も会いたがってるって梵が言ってたよ。今度三人で一緒に城においでよ」
と言うまでになった。
しかしながら他の同僚たちがそうではないことに小十郎は気づいていた。仕事上はともかく、一休みの時間となると皆小十郎に子どもの話題を振ったものかどうか考えあぐねている様子が見て取れた。会話が上滑りするのだ。唯一変わらないのは綱元で、興味がないのかなんなのか茶をすするだけである。そんな綱元の態度にほっとしつつも別な居心地の悪さも感じる己に、小十郎は自分自身でため息をついた。
しかしながらそれより参ってしまったのは姉の喜多である。
一言せめて生まれたことだけでも、と喜多に会おうとするが喜多は頑なだった。たまたますれ違った折、
「姉上」
と声をかけたが喜多はそのまま行ってしまった。小十郎は重いため息をついた。
喜多ではない奥方付きの侍女が小十郎のもとを訪ねてきたのはその数日後だ。
「奥方さまが、蔦様のお加減はいかがか、と。そしてもし左衛門殿も良いようならば」
――近いうちに顔を見せてくださいませね。
そういうことだった。
屋敷に戻って妻に告げれば、蔦はにっこりした。痩せて疲れてはいるが活力を感じさせる顔に小十郎はほっとする。
「姫様にお会いするのは久しぶりです」
最近首が落ち着いてきて少しの間縦抱きできるようになった左衛門をあやしながら蔦は言う。左衛門はアーアーと赤子独特の声を出して母に甘える仕草を見せた。最近は母に笑うようにもなって、小十郎は子の成長に驚くばかりだ。だが父が子を抱いたことがあるのは数度のことで、小十郎は罪悪感からか妻と子を少し離れた所から見守るばかり。
初宮参りの帰り、久々に会った舅の矢内重定はどこか慣れた様子で孫を抱きうれしそうにしていた。始めは小十郎に対して複雑な面持ちをしていた舅と姑も、孫を見ると相好を崩してくれた。加えて、夫にある意味殺されかけた娘がそれを気にしている様子を見せなかったのでその父と母も――あの後、姑などまさしく般若の様相で娘を迎えに来たのだが――根本的なところはともかく、許すしかなかったのかもしれない。ともかく孫を抱いてそれをあやそうとくるくると表情を変えてみせる重定を小十郎は少し羨ましいと思ったことを覚えている。
さらに数日後、妻と赤子のために駕籠を呼んで小十郎は登城することになった。蔦と左衛門に暖かな格好をさせて駕籠に乗せ、簾を下げようとすれば蔦はそれを止めた。
「左衛門が珍しがっております」
「……雪は降っていないが、寒いぞ。風邪をひく」
「少しだけですから――ほら」
見れば、蔦の腕の中で布にしっかりくるまれた左衛門がなにやらもぞもぞ動いている。積っている雪が珍しいのか、外が珍しいのかはわからない。ともかく外気に触れて興奮しているのはわかる。蔦はその様子をにこにこと見守っている。母の顔だ。小十郎は珍しいものを見て目を丸くしたが、すぐに表情を戻した。
「……少し歩いたら下ろす」
「はい」
そんなわけで、しばらくの間小十郎は蔦と左衛門を見下ろしながら駕籠と並んで歩いた。
城について案内されれば、そこには政宗と愛姫夫婦、そして成実と綱元がいた。部屋に足を踏み入れる前に、すっと片倉夫婦は床に伏した。蔦に抱かれた左衛門があう、と声を上げる。
「まあそんなところにいらっしゃらないで。早く中に」
楽しげな愛姫の声が響く。主夫婦に子がいないことを気に病んで小十郎は事件を引き起こした。翻ってみれば――事件の翌日に政宗が指摘したように――それは政宗、ひいてはその妻である愛姫への侮辱にもなりえた。愛姫には輿入れ以降懐妊の兆候が見られたことはない。武家の妻として、子をなすことは一番の大事である。だが愛姫の小十郎と蔦を呼ぶ声は以前と変わりなく、明るい。それは生来の愛姫の優しげな性格によるものか、それとも蔦と左衛門の無事が一番と思ったのか、小十郎は夫の一の家臣だと思って折り合いをつけたのか。あるいは小十郎の短慮ともいえる愚かしい行動に怒りも呆れも通り越したか、それは誰にもわからなかった。
ともかく、片倉の夫婦は膝を進めた。
「片倉左衛門にございます。本日はお目通り、大変にありがとうございます」
小十郎が堅苦しく言うと蔦がそっと左衛門の顔を皆に見えるようにした。成実が身を乗り出して覗き込む。
「小十郎、堅苦しいのは必要ないぜ」
政宗は言って蔦にそばにくるように示した。愛姫がそばに来た左衛門を覗き込む。
「男の子なのに色白ですね。きっととっても素敵な殿方になるわ」
満面の笑みで言った愛姫の言葉がわかったわけはないだろうが、左衛門がなにやらもこもこと口を動かした。
「抱っこしても?」
愛姫はうずうずといった様子で蔦に聞いた。蔦は笑う。
「ええ、もちろんです。人見知りはあまりしない子ですが、もし泣いてしまったら……」
「大丈夫です。ややは泣くのが仕事だとよく聞いております。泣いたら母上恋し、ということですね。羨ましいです」
愛姫はそっと左衛門を横抱きのまま受けとった。慣れないことなのでぎこちないが、女らしい仕草に政宗の左目が見開かれたのが小十郎と蔦には見えた。
左衛門の方はというと、突然抱く腕が変わったことにとまどったのか目をぱちくりさせ、首をまわして母を探す――その途中、愛姫と目が合うと誰何するように「あう」と言った。
「めご、と言いますよ。左衛門」
「うー?」
不思議そうにしてはいるが泣きださない様子の左衛門に、政宗は珍しげに妻が抱く赤子を覗き込む。
「度胸座ってんな……さすがっつーか……。っていうか意外とちいせぇ」
その声に左衛門が政宗の方を向いた。そしてしばらく、まんまるの目をじっと政宗にあてつづけた。それから片手を政宗に伸ばして開いたり閉じたりする。その意味に気付いたのは愛姫だ。
「政宗様の眼帯がめずらしいようですね」
「Ah, 他の奴はしてないからな」
握っては開かれる手に人差し指を握らせながら、政宗は言う。
「手も小さいな。でも、ふにゃふにゃしてるのに力強いな、意外と」
「政宗様も抱っこなさいますか」
蔦が言うと、政宗は僅かにひるんだようだった。
「いやいい。なんか――小さすぎておっかねぇ」
そう言いながら政宗はつんつんと左衛門の頬をつつく。左衛門が「あー」と抗議の声を上げたので一同は笑った。それから成実がにじり寄って来た。
「オレも抱いていい?」
「泣かれるぞ?」
「梵ビビりすぎたよー。愛姫が赤ちゃんは泣くのが仕事って言ったじゃん」
成実は左衛門を受け取ると様々面白い顔をして見せた。左衛門は泣きはしないがきょとんとしている。蔦が笑いながら
「まだわかりませんよ」
と言っても
「気持ちがだいじー。なんか蔦に似てない? 母上に似て良かったねぇ」
と成実はめげなかった。
そんなやりとりを、小十郎はどこか離れた所から見ている心地だった。ふと視線を感じてそちらを見やれば、綱元が小十郎を見ていた。なにかギクリとするものがあって、小十郎は目をそらした。
そこへ、別な声が響いた。
「御前、失礼いたします」
一同が振り返れば、喜多がいた。ぱっと愛姫の顔が明るくなる。
「よかった。待っていましたよ、喜多」
顔をあげた喜多は小十郎に目もくれず、その表情は硬い。
「義姉上、お久しぶりにございます。左衛門にございます」
成実から左衛門を受け取った蔦が差し出すと、喜多の表情がふんわりと柔らかくなった。
「まあややなど……いつぶりのことでしょう」
無意識に腕を差し出した義姉に蔦は息子を託す。喜多はこの場の誰よりも慣れた手つきで左衛門を抱いた。左衛門はまた「うー」と言った。まるで挨拶のような言葉だった。
「伯母上ですよ、左衛門」
母の声に息子が反応する。母を見つけると、今度はくりくりとした目が喜多をとらえた。そしてふいに赤子は「あー」と言って笑った。今日初めて見せた笑い顔に一同が「おお」と声を上げた。喜多の笑顔がますます広がる。
「本当に可愛らしい」
それからふと、喜多は義妹に赤子を返して真面目な顔になった。
「本当に可愛らしい。……蔦、今ならその子を連れて矢内に戻っても構わないのですよ」
「え……」
不意に出た話題に、凍りついたのは小十郎と蔦の片倉夫婦だけではない。年若い夫婦と成実も身を固くする。誰もが避けていた話題だった。
「あなたは良く出来た嫁です。左衛門も大変可愛らしい。今回、あなたが矢内に戻ったとしてもあなたに非がないのは明らか。家政を上手く回すことができ、男児を産むことができるのならばもっといい男がおりますよ」
「――」
姉の歯に衣着せぬ物言いに、小十郎は拳を作って耐えた。蔦はだまって喜多を見つめている。
「なんなら、政宗様に見つけていただきましょうか、良い御縁を」
「おい、喜多――」
抗議の声を上げようとした政宗に喜多はすっと視線を向けた。その視線の鋭さと冷たさに政宗は思わず黙ってしまい、愛姫は困り果てたようにしており、成実はおろおろとあたりを見回している。
「――私は片倉小十郎の嫁にございます」
蔦はそんな喜多に静かに言った。腕の中の左衛門があう、と声を上げる。
「あのことは、確かに小十郎さまに私に願われたこと。ですが――」
「腹は借り物、と?」
怒りに満ちて冷静さを失い、珍しく話を遮った喜多に蔦は首を振る。
「小十郎さまは願われただけ。左衛門を連れて行こうと決めたのは私にございます」
「蔦」
「小十郎さまが夫として不出来であるとおっしゃるならば、私も左衛門にとって母としては不出来どころかないほうがいい存在でしょう」
うーうー、と左衛門が声を上げたので、蔦はそちらに視線を落とした。母が子に柔らかく笑いかける。
「ですが私は小十郎さまに助けられ、左衛門もこうしてここにおります。――さすれば、私は片倉の二代に恩があります。生かしていただいた恩と、生きていてくれた恩」
「――」
喜多はじっと蔦と左衛門を見つめている。赤子は無垢で、母には迷いがない。蔦は喜多を正面からしっかりと見据えた。
「その恩のために、私は片倉小十郎の妻でありたいと思います」
喜多はそこで目を伏せた。部屋はしんと静まり返っている。
「恩、などと。蔦、お前は不思議な女ですね。――お前が愚弟を憎まないなら、私がお前の分まで憎むという手もありますね。それがせめてもの姉としての償いになるのなら」
その言葉を聞いて、小十郎はぐっと目をつぶり蔦は首を振った。政宗は珍しく言葉を探し、愛姫は事態をなんとかする糸口を探そうとする。成実が、助けを求めるように綱元を見た。その視線に気づいて、綱元が立ち上がる。
「どれ、私はまだ抱かせていただいておりませんな」
どこか間の抜けた綱元の物言いに、一同が一斉にそちらを見た。綱元は気にした風がない。
「あ、はい――」
戸惑いながら蔦が左衛門をそっと差し出すと、綱元はにこにこと赤子を受け取った。
「左衛門殿、私はなかなかそなたと縁深く、だが説明が難しい関係にありましてなぁ。面倒なので伯父だと思ってくだされ」
あう? というような声を左衛門が出した。それを眺めながら、綱元がポツリと言った。
「姉上は私を憎んでおいでか」
「え――?」
綱元の言葉に喜多が珍しく面喰ったような顔をした。
「私が生まれたから、姉上と姉上の母上は鬼庭から出されたと聞いております。片倉の御夫婦の前でこう言うのは心苦しいものがありますが、鬼庭に比べれば片倉は禄も下。姉上は御苦労なされたのでは、と思います」
綱元は体を揺らした。腕の中の左衛門がきゃっきゃっと声を上げる。
「それも私が生まれなければなかったこと。恨んでおいでか」
「――いいえ、まさか」
喜多は目を見開いて、歳の近い異母弟を見ながら言う。
「たしかに片倉はあまり裕福とはいえませんでしたが――小十郎が生まれて、そんなことを考えている暇はありませんでしたし、何しろお前は随分立派になって。憎いどころか誇らしいものです」
「――ならばよかった」
綱元は姉に笑いかけ、左衛門を母の腕へと返した。
「憎んでいる、と言われたらどうしようかと。なにしろ私にとっては天命をいただいたばかりのころの話。おぼえておりませぬ。それでも憎いといわれれば、私には謝罪するよりほかにどうすることもできない話にございます」
喜多がはっとしたような顔になった。小十郎と蔦、そして皆が綱元の顔を見る。綱元はあいかわらずどこか読めない顔をしているが、凪いだ心地だけは読みとれる気がした。
「姉上が先ほど蔦殿におっしゃったことも似たようなことかと。母の腹の中でぬくぬくしていたころの自分の話で、父が伯母に憎まれ、母が板ばさみになるようなことになっていると聞かされれば、左衛門殿はどう思うでしょうな」
「――……」
「益もないことです。左衛門殿が屈折しても良いのなら、ですが。蔦殿は小十郎殿の嫁でありたいとおっしゃられる。左衛門殿にはそれで十分。姉上が責任を感じる必要も、またそれを負って余計な口出しをする必要もないかと」
「――綱元、お前、口ばかり立つようになって」
喜多がため息をつきながら言った。それは己へのため息であった。綱元はからからと笑う。
「ましてや小十郎殿も立派な大人。今更姉上が責任をとると言われても困りましょう。――子を育てるのには慈しみが肝要。憎しみは不要と心得ております」
綱元はそこでちらりと政宗を見た。その視線に政宗がふと右目を覆う眼帯に触れる。
「……そうだな。その通りだ。喜多、それはお前が一番良く知ってるだろう?」
「――政宗様」
「それに、小十郎殿は深く深く反省しておられますよ」
愛姫が小十郎を示して言うと、喜多は小十郎を今日はじめてまともに見た。小十郎は床を見つめていたが、意を決したように顔をあげる。その傍らに、左衛門を抱いた蔦が並んだ。
喜多は自らの額を抑えた。
「そう、そうですね――あまりにも頭に血が上って、冷静さを欠いておりました」
そこで喜多はすっと床に指をついた。弟夫婦がはっとする。
「蔦、ごめんなさいね、きついことを言ってしまって。
小十郎も――蔦は三国一の嫁ですよ。大事になさい。それだけは言っておきますよ」
「もとより承知。こたびのことは姉上がお怒りになられても仕方のないこと――」
小十郎もまた深く深く頭を下げた。蔦の腕のなかで、左衛門があうあうと声をあげて手足をばたつかせた。何やら大人にはわからない楽しそうなその様子に、一同は一致してようやっと笑顔になった。
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