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※ド素人の作業なのでゆめゆめ頭から信じてはいけません。歴史学は疑うところから始まります。これでレポート書いて怒られても責任とれません。ご了承ください※
※生没年は和暦の方が正しいのですが、スペースの関係上と西暦に慣れた作業者のサボリ心から西暦になっています。そのため、太陰暦と太陽暦の計算上ズレが生じている可能性があります。あと数え年計算してません。※
というわけで、矢内和泉重定さんのお子さんたちとお孫さんたちの家系図を再構成してみました。
史料によっては内容が異なるものが多いんですが、今のところ「こうかな?」という感じです。
以下作業者による注釈とか感想とかです。
※蔵六院と景綱の長女が「娘?」
二代目小十郎である重長(重綱)に姉がいたという史料は散見されるんですが、「蔵六院(矢内氏)の子説」と「側室の子母不明とする」説があるようです。(他にも重長と行綱の間に「友綱」という子(慶長14年(西暦1609年)、19歳で没。三十郎)が居るのですが、母が「上原氏」だったのでこちらは省略しました)
そのためここでは「娘?」としております。
それとこれは作業者の雑感なのですが、側室の子にしても、蔵六院の子だったら特に、重長の前に子どもがいたとしたら、重長誕生時に景綱が引き起こした「おしかえす(=生まれたら殺す)事件」が輪をかけて理解不能になるので、疑問が残ります(ex.長子誕生のときにはお前何も騒がなかったんかい、他)。しかし史料には「片倉八郎兵衛祖母也」とするものがあったり、戒名があるとの情報もあるので、実在したのかなとも思います。
※蔵六院の没年が「1626/1627」?
『白石市史』の「片倉代々記」、「二代重長」の「寛永12年乙亥9月大」の記録より。
ここには重長の正室針生氏(指月院。寛永三年(西暦1626年)七月江戸にて没)の死亡記事と共に蔵六院の死亡記事があるのですが、
「母堂は白石にて同四年四月に没す。是三年之七月以降四年の四月以前下りぬと見得たり」
とあります。針生氏と蔵六院が相次いで亡くなったことで記録に混乱があったようです。
※矢内重定の没した場所が白石。
重定の生没年は不詳ですが、老後客人として白石城にて没した、と読みとれる史料があるので景綱の白石城入城後に亡くなったようです。隠居して子どもたちと一緒に白石へ下ったのでしょうか。しかし長女の家でもなく長男の家でもなく次女の家に居たんですね。お城は広かったからか、次女の旦那が一番出世したからか、はたまた……? 早くに両親を亡くしたともいわれる景綱が御舅さんを大事にしていたのかな、とも深読みできるエピソードです。
※齋藤家の兄が「着座格」で弟が「一家格」。
始め資料を読んだ時「……逆?」とも思い、家系図の注釈にも「兄と共に一家に召し上げられた」とあったのですが、兄の家系ほうは最終的には「着座格」のようです。ここら辺の事情は作業者の日本史の基礎知識が不足しているのも相まってよくわかりません。
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2012年12月16日追記
家格の表記ですが、どうも資料(『白石城主片倉氏と家臣の系譜』)は家系図の最終段階(幕末あたりか)のもので並べられているようです。斎藤甚左衛門家は片倉家六代村廉のときに不祥事があり、家臣にも落ち度ありとされ処罰後降格となった模様です。
つまり上記家系図上の家格表記は、幕末の最後の頃の家格となります。
主な参考資料
「片倉代々記」(白石市史編さん委員会編、『白石市史 4 史料編(上)』、1971)
川村要一郎編、『白石城主片倉氏と家臣の系譜』、創栄出版、1997
川村要一郎著、『白石刈田地方の苗字と家紋』、1980
本田勇編著、『史料 仙台伊達氏家臣団事典』、丸善仙台出版サービスセンター、2003
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